1. 1,000万円の「屋根の上のバケツ」:ベロダイン崩壊と中国勢の台頭
2010年代半ば、自動運転の実験車両といえば、ルーフの上に鎮座する巨大な回転式ドラム缶がトレードマークでした。米ベロダイン・ライダー(Velodyne Lidar)が開発した64ラインの機械回転式LiDAR「HDL-64E」は、1台あたり7万5,000ドル(当時のレートで約800万〜1,000万円)という途方もない価格で取引されていました。
レーザー光を周囲に照射し、反射光が戻る時間から周囲360度の高精度3D点群マップをリアルタイム生成するLiDARは、カメラが苦手とする夜間や逆光、悪天候下でも正確な物理距離を計測できる「自動運転の究極の眼」と称賛されました。
しかし、その構造は職人技の塊でした。数十個の半導体レーザー発光部と受光センサー、レンズを高精度に手作業でアライメント調整し、モーターで物理的に回転させる設計は、量産性に乏しく、振動の激しい市販自動車の車載規格(AEC-Q100)を満たすことは不可能に近いとされていました。ベロダインはやがて特許訴訟に明け暮れ、価格破壊の波に乗り遅れて業績が悪化、2023年には競合アウスター(Ouster)との合併に追い込まれ、かつてのパイオニアは市場から姿を消しました。
その光学機器の限界を「シリコン半導体」の論理で打ち破ったのが、上海に本拠を置く禾賽科技(Hesai Technology)でした。
清華大学から米イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校(UIUC)へ進んだ李一帆(Li Yifan)、スタンフォード大学で機械工学を学んだ向少卿(Xiang Shaoqing)、同じくスタンフォード大学で精密計測を研究した孫愷(Sun Kai)の3人が率いるチームは、米国の巨頭たちが築いた光学の常識を覆しました。
2. 逆張りの「ASICチップ化」:李一帆が仕掛けた半導体統合の勝負
禾賽科技が競合他社と決定的に異なっていたのは、「LiDARのチップ化(ASICアーキテクチャ)」への全額投資でした。
初期のLiDARは、数百個ものディスクリート(個別)部品をプリント基板上に並べ、熟練技術者が顕微鏡を覗きながら光軸を手作業で調整していました。部品点数が多ければ多いほど、車載時の振動や熱膨張で光軸がズレ、歩留まりは低下します。
禾賽科技は2017年から、数百ライン分のレーザー送信ドライバー、高感度受光素子アレイ(SPAD/SiPM)、そして微弱なアナログ信号を高速処理するデジタル回路を、自社設計のCMOS/ASIC専用チップへと集積化する研究に舵を切りました。

この半導体統合がもたらしたインパクトは劇的でした。
ディスクリート部品で構成された従来のLiDARでは数日を要していた光学アライメント検査工程が、ウェハレベルの自動テストにより数分へ短縮。部品点数は数千点から数十点へと削減され、耐振動性能と生産歩留まりは跳ね上がりました。
このチップ化の集大成として2022年に量産出荷された「AT128」、そして高さをわずか25mmに抑えて車体ルーフやフロントガラス裏への完全内蔵を可能にした最新モデル「ATX」は、世界のLiDAR市場の勢力図を不可逆的に塗り替えることになります。
3. 300万円EVへの標準装備化:量産100万台ドミノと日米競合の退潮
禾賽科技の価格破壊は、中国のスマートEV産業と完璧な共鳴を起こしました。
火付け役となったのは理想汽車(Li Auto)の家族向けSUV戦略でした。同社は「L9/L8/L7」の最上位グレードにおいて禾賽製LiDARを標準搭載し、都市部ナビゲーション運転支援(NOA)の安全性をアピール。これに追従するように、雷軍が率いる小米汽車(Xiaomi SU7)、長安汽車、極氪(Zeekr)、零跑汽車が軒並み禾賽製LiDARの採用を決定しました。
かつて1台100万円以上したLiDARの納入単価は、AT128の量産期で約500ドル(約7万〜8万円)へ急降下。さらに最新のATXに至っては、大量納入ロットで200ドル以下(約1,500元 / 3万円前後)という、従来の常識を根底から覆す水準へと叩き落とされました。
車載LiDARは「数千万円の実験車だけの特注品」から、「300万〜400万円台の一般大衆車に当たり前に積まれる標準センサー」へと民主化されたのです。
| 比較項目 | 禾賽科技(Hesai / 中国) | 速騰聚創(RoboSense / 中国) | Luminar(米国) | Valeo(フランス / SCALA) |
|---|---|---|---|---|
| 主要技術方式 | 自社ASICチップ化ハイブリッド | MEMSミラー+自社チップ | 1550nmファイバーレーザー | メカニカル回転ミラー |
| 量産単価水準 | 200〜450ドル(最安水準) | 250〜500ドル | 1,000ドル以上(高止まり) | 600〜900ドル |
| 累計出荷規模 | 80万〜100万台規模(世界首位) | 60万〜80万台規模 | 数万台規模 | 20万台規模 |
| 主要顧客基盤 | 理想、小米、長安、Lotus | 小鵬、吉利、BYD、ルノー | ボルボ(EX90等限定的) | メルセデス、アウディ |
| 上場市場 | 米ナスダック(HSAI) | 香港メインボード(2498.HK) | 米ナスダック(LAZR) | ユーロネクスト・パリ |
市場調査機関Yole Groupの最新データによると、車載乗用車向けLiDARの市場シェアにおいて、禾賽科技と速騰聚創の中国勢2社だけで世界全体の70%以上を占有。かつて自動運転の覇権を握ると目されていたルミナー(Luminar)やイノビズ(Innoviz)は、納入遅延とコスト高によって欧米OEMからの受注キャンセルやリストラに追い込まれました。
日本の自動車産業にとっても、このコントラストは鮮烈です。デンソーやパイオニアなど名門日系サプライヤーが車載LiDARの試作・研究を長年継続しながらも、自動車メーカーが求める「数万円台での量産コミット」を決断できずにいる間に、世界市場の主導権は完全に上海のベンチャー企業へと移ってしまったのです。
4. 冷徹な代償:テスラ純ビジョンの猛追とペンタゴンの照準
しかし、世界市場を制覇した禾賽科技の前に広がる景色は、決して平坦なビクトリーロードではありません。同社は今、2つの実存的な危機と挟み撃ちの戦いを強いられています。
① テスラ発「純ビジョン(Pure Vision)」陣営の猛追
最大の脅威は、イーロン・マスクが掲げる「カメラのみによるエンドツーエンド自動運転(FSD V12/V13)」の急速な進化です。
AIモデル(ニューラルネットワーク)がカメラ映像の時系列変化から物理空間の3D深度を高精度に逆推定できるようになり、小鵬汽車(XPENG)が発売した10万元台前半の普及型EV「MONA M03」や自社製AIチップ搭載モデルのように、「LiDARをあえて廃止してカメラのみで高度な自動運転を実現する」動きが中国国内でも広がり始めました。
自動車メーカー間の熾烈な値下げ戦争の中で、「1台2万〜3万円のLiDARコストすら削りたい」というプレッシャーは凄まじく、高価格帯モデルには搭載されるものの、ボリュームゾーンの普及車ではLiDAR排除の波が押し寄せています。
② 価格破壊のブーメラン:粗利益率の急激な侵食
みずから主導した価格破壊は、自社の収益力をも削り取っています。
かつて45〜50%前後を維持していた禾賽科技のハードウェア粗利益率は、中国国内OEMからの過酷な原価低減要請(コストカット圧力)を受け、30%台前半へと下落。売上高と出荷台数が過去最高を更新し続ける一方で、莫大な半導体R&D投資や減価償却費を吸収しきれず、恒常的な黒字定着には絶え間ないコスト改善が求められています。
③ 米国防総省(ペンタゴン)との地政学的法廷闘争
さらに過酷だったのは、米中ハイテク摩擦の最前線に立たされたことでした。
2024年1月、米国防総省は禾賽科技を「中国軍事関連企業(Section 1260Hリスト)」に突如指定。米国市場での取引制限や上場廃止の危機に直面しました。
しかし李一帆らは泣き寝入りを選びませんでした。禾賽科技はワシントンD.C.の連邦地方裁判所に米国防総省を相手取って提訴。「民間乗用車の安全センサーを作っているだけであり、軍事転用の根拠は一切存在しない」と法廷で正面から争い、2024年8月、国防総省側に証拠不備を認めさせてリストから一時除外させるという、極めて異例の司法勝利を勝ち取りました。
しかし、米国政府による車載スマートコネクテッド技術や中国製センサーへの安全保障上の規制強化は続いており、グローバル展開における地政学リスクの影は完全に晴れてはいません。
5. フィジカルAIの空間感覚へ:車載センサーを超えた次なる戦場
純ビジョン陣営の追撃と価格競争の中で、禾賽科技の創業者たちが描く次なる地平は、自動車の枠組みを大きく超えています。それが、「フィジカルAI(身体性AI)と人型ロボットの3D空間認識」です。
李一帆、向少卿、孫愷の創業コアメンバーは近年、知能ロボット企業「大裂谷智能(Sharpa)」を立ち上げるなど、自社の空間認識ハードウェアと大規模言語モデル・視覚行動基盤モデル(VLA)を融合させた新領域への投資を加速させています。
二足歩行や四足歩行で複雑な人間環境を移動するロボットにとって、カメラの2D映像だけに頼ったナビゲーションは、段差のミリ単位の誤認や透明ガラスへの衝突といった重大な安全リスクを孕みます。高精度かつ超小型・低消費電力化されたLiDARは、人型ロボットの胸部や頭部に埋め込まれ、物理世界をミリ単位で把握する「デジタル触覚」としての価値を再定義しつつあります。
100万円の「屋根の上のバケツ」を、3万円の「目に見えないシリコンチップ」へと変貌させた禾賽科技。それは単なる価格破壊の物語ではなく、光学という古典的な物理工学を、半導体とスケールメリットの法則によって民主化した現代製造業の勝利でした。
そして今、純ビジョンとの技術的イデオロギー闘争と地政学の荒波を越えて、彼らのセンサーは自動運転車の屋根の上から、現実世界を歩き回るAIロボットたちの全身へと、その領野を広げようとしています。
コメント
...