1. 21kmの熱狂と「必勝」のハチマキ:26歳が仕掛けた賭け
照りつけるアスファルトの陽炎の向こうから、カンカンと金属的な足音をアスファルトに刻みながら、1台の小柄な人型ロボットが駆け抜けてきます。
北京亦庄(イーヂュアン)のハイテク特区で開催された、世界初の人型ロボットによるハーフマラソン大会。スタートラインに並んだ21体のロボットの多くは、数キロも走らないうちにアクチュエータの熱暴走で関節を脱力させ、あるいはアスファルトの微細な段差に足首を取られて前のめりに激突し、リタイアしていきました。完走率がわずか2割にも満たない過酷なサバイバルレース。その灼熱のコースを、一度も転倒することなく全自主歩行モードで走り抜き、2位のチェッカーフラッグを受けたのが、新興スタートアップ「松延動力(Noetix Robotics)」の二足歩行ロボット「N2(愛称:小頑童)」でした。
沿道のフェンス越しに、額に「必勝」と書かれた赤いハチマキを巻き、メガホンを片手に絶叫していた若者。それが同社の創業者兼会長兼CTO、1998年生まれの姜哲源(ジャン・ジョーユエン)です。
当時わずか26歳。北京の大学受験で市内28位という猛烈な成績を収めて清華大学電子工学科へ進み、同大学屈指のエリート研究機関であるクロス情報研究院(姚期智教授が率いるIIIS)で博士課程に進学した俊英でした。しかし彼は博士課程3年目、世界的なエンボディドAI(身体性AI)の胎動を前に「研究室で論文を書いている場合ではない」と学業を中退。順義区の郊外に借りた一軒家に機材を持ち込み、仲間とともに松延動力を立ち上げました。
北京のハーフマラソン準優勝は、この無名に近かった若いチームを一夜にして業界の台風の目へと押し上げました。レース直後から数千台規模の予約注文が殺到し、評価額は急騰。2026年2月には、視聴者数200億回を超える中国の国民的年越し番組「春節聯歓晩会(春晩)」のステージに、コメディアン蔡明の孫役として登壇するまでに至ったのです。
しかし、華やかなスポットライトの背後で、姜哲源の視線は極めて冷徹でした。
「研究室でしか動かない1000万円のロボットに存在価値はない。体重計に乗せてキロ単価で売れるレベルまで価格を叩き落とす」姜哲源(松延動力 創業者・会長)
この発言は、アカデミア出身者が陥りがちな「スペック至上主義」に対する強烈な決別宣言でした。彼が目指したのは、ボストン・ダイナミクスのような超高性能な工学の奇跡ではなく、サプライチェーンを限界まで削り倒した「徹底的な価格破壊」だったのです。
2. 3.99万元と9,998元の衝撃:小型化で切り開いた「逆張り設計」
人型ロボット業界の常識は、長らく「大人の体格」を模倣することにありました。身長170cm、体重70kg前後のフルサイズ筐体に、高トルクのハーモニックドライブ(波動歯車)や高価なブラシレスDCモーターを30個以上詰め込む。その結果、1台あたりの製造コストは安くても数百万円、研究用モデルになれば1000万円から3000万円に跳ね上がります。テスラの「Optimus」でさえ、目標量産価格を2万ドル(約300万円)と掲げるのが精一杯でした。
これに対し、姜哲源が下した第一の反直覚的な決断は、「大人の体をきっぱり諦め、1.2mの子供サイズへ縮小する」ことでした。
主力機「N2」の身長はわずか120cm、重量は30kg。さらに2025年秋に発表した普及型モデル「小布米(Bumi)」に至っては、身長94cm、重量約12kgという超小型設計に踏み切りました。

サイズを半分にすれば、物理の法則が味方に回ります。二足歩行ロボットの関節にかかる負荷トルクは、身長の3乗から4乗に比例して激減します。つまり、1台数十万円もする特注のハーモニック減速機を使わずとも、安価な遊星歯車やサイクロイド減速機、市販の量産モーターで十分な角加速度を生み出せるようになります。
価格設定は業界を震撼させました。N2の発売価格は3.99万元(約85万円)。そして小布米は、業界初の一万元切りとなる9,998元(約22万円)。これは、ソニーのエンタテインメントロボット「aibo」と完全に同一の価格帯です。
- 1000万〜3000万円の価格設定:高価な特注ハーモニックドライブと高精度センサーに依存し、大学の研究室以外に買い手が不在
- 重量70kgの転倒リスク:歩行テスト中に転倒すれば自重でギアが粉砕し、周囲の人間を巻き込む危険から屋外実験が困難
- ハードウェア精度への過度な要求:公差数ミクロンの精密加工を求め、サプライチェーンの調達リードタイムが半年以上に長期化
- 3.99万元・9,998元の価格破壊:普及型モーターと汎用ギアを採用し、一般家庭や教育機関の予算枠に収まる価格帯を実現
- 12〜30kgの軽量性と耐久性:転倒しても自重で壊れにくく、激しい連続バック宙や屋外アスファルトでの全力疾走が可能
- シミュレーション強化学習(Sim2Real):ハードウェアの加工誤差を数千時間の仮想シミュレーション制御アルゴリズムで補正
姜哲源率いるソフトウェアチームは、中国トップクラスの数理能力を「粗削りな安物ハードウェアを、強化学習(RL)でねじ伏せて走らせる」という一点に集中投下しました。数千台の仮想ロボットを物理シミュレータ上で何百万回も転倒させ、重心が狂っても瞬時に足を出し直す反射歩行モデルを構築。ハードの不完全さをソフトの知能で覆い隠すアプローチによって、3.99万元の機体に世界初の「連続バック宙」と「秒速3.5mのスプリント」を叩き込んだのです。
3. 「おもちゃの罠」と物理限界:直面する商業化の冷徹な暗面
しかし、ハードウェアの物理法則をごまかし続けることはできません。熱狂のハーフマラソンと春晩の特需が一段落した現在、松延動力の前には、極めてシビアな商業的トレードオフと現実の壁が立ちはだかっています。
第一の壁は、「可搬重量(ペイロード)の致命的な不足」です。
身長1.2m、重量30kgのN2は、身軽に宙返りを決め、マラソンを走り抜くことには長けています。しかし、いざ「製造現場の組み立てラインで部品を運ぶ」「物流倉庫で段ボールをピッキングする」「病院で患者を介助する」といった実用タスクに移ろうとした瞬間、その体格が足かせとなります。N2の両腕が持ち上げられる重量はわずか1〜2kg程度。これでは、産業用ロボットや自動車工場の現場ではまったく仕事になりません。
| 比較項目 | 松延動力 N2 (Noetix) | 宇樹科技 G1 (Unitree) | テスラ Optimus Gen2 |
|---|---|---|---|
| 身長 / 重量 | 120cm / 30kg | 132cm / 35kg | 170cm / 57kg |
| 公表本体価格 | 3.99万元(約85万円) | 約1.6万ドル(約245万円) | 未定(目標約2万ドル) |
| 最高速度 / 運動 | 3.5m/s(連続バック宙・マラソン完走) | 2.0m/s(俊敏な移動) | 約0.6m/s(平地歩行) |
| 有効可搬重量 | 約1〜2kg(軽作業・教育用) | 約2〜3kg(軽作業) | 約20kg(産業用重量物運搬) |
| 主要ターゲット市場 | STEAM教育・展示受付・エンタメ | 研究機関・軽工業ライン・検査 | ギガファクトリー製造・家庭家事 |
| 最大のボトルネック | 実作業ペイロード不足とおもちゃ化 | 産業用高精度マニピュレーション | 量産歩留まりとアクチュエータ原価 |
第二の壁は、「バッテリー消費と熱ダレの物理限界」です。
高動的な運動を行わせるほど、モーターには定格をはるかに超えるピーク電流が流れ込みます。ハーフマラソンのレース中、N2はバッテリーのホットスワップ(交換)とアクチュエータの冷却を繰り返しながら走破しました。現在のバッテリー技術では、秒速3.5mの疾走や宙返りを続ければ、実稼働時間はわずか20〜30分で底をつきます。常時電力を消費し続ける二足歩行の機構は、移動効率の観点では車輪型ロボットに到底敵いません。
そして第三の、より根本的なジレンマが「おもちゃの罠(The Toy Trap)」です。
9,998元の小布米や3.99万元のN2を何千台売ろうとも、その購入者の大半は大学の工学部、小中学生向けのプログラミング教室、科学館、あるいは富裕層のガジェット愛好家です。これは確固たるキャッシュフローを生み出す一方で、企業としての認知を「ハイテク知育玩具メーカー」の枠内に固定化してしまう危険性を孕んでいます。
先行する宇樹科技(Unitree)は、四足歩行ロボットの量産規模とサプライチェーン支配力を背景に、B2Bの巡回点検や防犯、さらにはフルサイズ人型「H1」「G1」へと着実に産業クラスの階段を登っています。宇樹の巨大な資本と製造力に対し、松延動力が小型機のおもちゃ需要に安住すれば、本格的な産業自動化の主戦場から脱落しかねません。

さらに同社が手掛けるもう一つの実験的プロダクト、生体模倣ロボット「Hobbs(霍布斯)」も、強烈な議論を巻き起こしています。
Hobbsは、プラチナシリコンで作られた人間の顔面に、30個から32個もの微細なマイクロモーターを密集配置し、微笑みや眉の動き、視線の追従といった繊細な表情を作り出すバイオニックロボットです。春晩では蔡明そっくりの「ロボット蔡明」として人間の蔡明と掛け合いを演じ、喝采を浴びました。
しかし、顔面だけで30個を超えるモーターを駆動する構造は、部品点数の増大による故障率の跳ね上がりと、製造原価の高騰を招きます。何より、どれほど微細に表情を模倣しても、人間の目はわずか数ミリ秒の不自然な引きつりや視線の硬さを敏感に察知し、いわゆる「不気味の谷(Uncanny Valley)」の底へと突き落とされます。展示会やテレビの余興としては最高峰のアイキャッチになるものの、日々の暮らしやオフィスに溶け込むパートナーロボットとしては、シリコン顔面がもたらす心理的抵抗は予想以上に根深いのです。
4. 「身体」から「脳」へ:L0からL1の谷を越える世界モデル
こうした限界を、姜哲源自身が誰よりも自覚していました。
2026年に入り、プレシリーズBラウンドで中金資本(CICC Capital)などを引受先とする累計約5億元(約110億円)の資金調達を完了させた松延動力は、劇的な戦略の舵切りを発表しました。ハードウェアの運動性能(小脳)の誇示から、環境を理解して自律判断する「エンボディドAIの大脳(基盤モデル・世界モデル)」の開発への全面シフトです。
姜哲源は中国の経済メディア『21世紀経済報道』のインタビューで、現在の業界の立ち位置をマラソンに例えてこう語っています。
「今の人型ロボット業界は、L0からL1へ移行する黎明期に過ぎない。42.195kmのフルマラソンに例えるなら、業界全体がスタートの合図とともに、ようやく最初の10メートルを走り出したところだ」
清華大学の博士中退と北京順義での創業
当時25歳の姜哲源が清華大学クロス情報研究院の博士課程を中退。同級生の研究者らと順義区の別荘を拠点に松延動力を設立、二足歩行アルゴリズムの集中開発に着手。
北京亦庄ハーフマラソン準優勝と爆発的受注
小型二足歩行ロボット「N2」が過酷な21kmレースを全自律完走し2位を獲得。完走率2割以下のサバイバル戦を制したことで、業界内外から数千台規模の予約注文が殺到。
1万元切りの超小型ヒューマノイド「小布米」投入
身長94cm・12kgの「小布米(Bumi)」を9,998元(約22万円)で発表。教育機関や家庭向けに手の届くパーソナルロボットとして市場に激震を走らせる。
春晩出演とプレシリーズB(累計約5億元)調達
国民的番組「春晩」で蔡明と共演し知名度を全国区へ。調達資金を元手に、本体の低価格普及で得た物理軌道データを糧とする自社「空間世界モデル」の開発へ本格進出。
姜哲源が定義する「L0」とは、あらかじめ決められた軌道をなぞるだけのオープンループ制御や、シミュレータ内で特化した反射運動(バック宙や平地ダッシュ)です。これは観客を驚かせるデモにはなりますが、机の上に散らばったコップを片付けることすらできません。
「L1」に到達するために不可欠なのが、3次元の物理空間を理解し、未知の障害物や物体の重量、摩擦係数をリアルタイムに推論して自律的に手足を動かす「空間知能(Spatial Intelligence)」と「世界モデル」です。
松延動力が3.99万元や9,998元という出血覚悟の低価格で本体をばら撒いた真の狙いも、ここにありました。
何千台ものロボットが教育現場や家庭、ショールームという「生身の実世界環境」に配備されることで、実験室のクリーンな環境では決して得られない、無数の転倒データ、段差の引っ掛かりデータ、人間との接触インタラクションデータがクラウドへ吸い上げられます。ハードウェア単体での利益を削る代わりに、フィジカルAIの訓練に最も欠落している「リアルな物理世界の長尾データ(エッジケース)」を最速で囲い込むデータフライホイールを回そうとしているのです。
5. 完璧主義の日本と「荒削りの速度」:二足歩行が突きつける問い
松延動力の歩みと姜哲源の戦い方は、かつて二足歩行ロボットの先駆者として世界をリードした日本のモノづくり産業に対し、強烈な鏡像を突きつけています。
日本にはかつて、ホンダが莫大な研究開発費を投じて生み出した不朽の名機「ASIMO」がありました。階段を上り下りし、滑らかな二足歩行を世界で初めて実現したASIMOは、工学の頂点として世界中の尊敬を集めました。しかし、ホンダは人命に関わる事故や転倒リスクを極限まで恐れ、完璧な安全性が証明されるまで一般への販売を決して許しませんでした。2000万円とも言われたリース価格と完璧主義の壁に阻まれ、ASIMOは最終的に実社会へ量産普及することなく、2022年に静かに歴史の幕を下ろしました。
日本のロボット開発が「99.99%の安全と数年間の耐久試験」を重んじる減点方式の哲学で進むのに対し、中国の松延動力や宇樹科技のアプローチは徹底的な「加点方式のプラグマティズム」です。
まず作って、3.99万元で市場に投げ込む。動かなければ現場でハチマキを巻いて直し、アスファルトの上で壊れたらその場で強化学習の重みを書き換える。多少の不気味の谷があろうとテレビの生放送にぶち込み、大衆の好奇心を巻き込んで資本と注文を回収する。
このやり方は、時に粗削りで、耐久性に乏しく、思慮を欠いているように見えるかもしれません。しかし、エンボディドAIという「ソフトウェアと物理世界が激突する未踏の領域」において、机上の安全基準に閉じこもることは、実世界データへのアクセス権を自ら放棄することを意味します。
26歳の姜哲源が率いる松延動力のロボットが、今後「おもちゃの限界」を突破して産業の現場に居場所を見出せるのか、それとも物理の壁に跳ね返されて散っていくのかは、まだ誰にもわかりません。
しかし、わずか85万円でバク転を決め、21kmのアスファルトを泥臭く走り抜けたあの日の30kgの鉄の塊は、世界のロボット産業における「完成」の定義を、すでに根底から揺さぶり始めています。
なお、同領域における産業構造の転換については、本誌が先に検証した「二足歩行を捨てた」星塵Astribot、秒速10mの逆張りおよび「画面のない歩くスマホ」楽聚Kuavo、15億円と工場の現実の分析もあわせて参照されたい。
参考資料・情報元
- [一次情報] 36Kr Japan:春晩で話題、注目の中国発人型ロボット4社:②Noetix Robotics、マラソン完走で脚光、業界の価格破壊狙う
- [一次情報] 36Kr Japan:秒速3.5mで疾走、連続バック宙も可能⋯中国の人型ロボット、活用の幅広げる
- [一次情報] 36Kr Japan:人型ロボットのマラソン大会で準優勝。中国スタートアップ 「松延動力」、新たに数十億円調達
- [一次情報] 北京亦庄:世界初の人形ロボット半程マラソン大会公式記録および完走データ発表
- [一次情報] 21世紀経済報道:清華博士中退の98年生まれ起業家・姜哲源が語るフィジカルAI(身体性AI)の物理限界と商業化の現在地
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