1. 開発現場の机の上に山積みされたモーター:論文ではなく「ネジの単価」を見る男
中国・浙江省杭州市。名だたるハイテク企業が集まるビン江区の工業ビルの一角に、宇樹科技(Unitree Robotics)の本社があります。
CEO室を訪ねた訪問者がまず驚かされるのは、そこに「大企業の総帥」にふさわしい豪華な革張りのソファや広大な執務机が一切存在しないことです。創業者兼CEOである王興興(ワン・シンシン)のデスクは、ハードウェア研究開発フロアのど真ん中に置かれています。卓上には分解されたステーターコイル、遊星ギアの削り出し部品、オシロスコープ、何本ものドライバー、そして何世代分もの3Dプリント製フレームが無造作に山積みされています。
評価額が数十億元に達し、世界屈指の人型ロボットユニコーン企業となった今も、王興興の日常は10年前の大学院時代と何ら変わっていません。彼は1日の半分以上をCADソフトの画面とにらみ合い、試作機の関節トルクの波形をチェックすることに費やしています。
ある投資家が同社のオフィスを視察した際、王興興にこう問いかけました。 「米国のボストン・ダイナミクスやテスラが何千人ものエリートと数千億円の資本を投じてもなお、人型ロボットの価格を数千万円から引き下げられずにいる。なぜ宇樹は、わずか数百人のチームで、9.9万元(約200万円)という破壊的な量産型人型ロボット「G1」を実現できたのか?」
王興興の答えは、あまりにも素っ気なく、そして残酷なまでに本質を突いたものでした。
「彼らの経営陣は、ネジ1本の仕入れ値を知りません。そして彼らのエンジニアは、論文を通すための複雑さに知恵を絞り、組み立てラインの作業員が何分でそのボルトを締められるかには興味がないからです」
ロボティクス業界において、長年信じられてきた「常識」がありました。ロボットを人間に近づけるためには、関節自由度を増やし、超高精度の高価なセンサーを全身に埋め込み、航空宇宙グレードの特殊金属を惜しみなく使わなければならない——という信仰です。
王興興はそのすべての常識を「アカデミアの自己満足」として一蹴してきました。彼が貫いてきたのは、徹底的な工学的リアリズムと、「量産できず、誰も買えない価格のロボットは、いかに動きが美しくても産業的敗北である」という冷徹な第一性原理です。
2. 大学院の自作「XDog」から始まった革命:油圧の神話を打ち砕いた第一性原理
王興興のエンジニアリング哲学の原点は、2013年から2015年にかけての上海大学大学院時代に遡ります。
当時、世界の四足歩行ロボットの最高峰として君臨していたのは、米国防高等研究計画局(DARPA)の潤沢な軍事予算を注ぎ込まれたボストン・ダイナミクス(Boston Dynamics)の「BigDog」や「WildCat」でした。凄まじい衝撃に耐え、雪山を駆け抜けるその圧倒的な機動性の源流は、高圧オイルでシリンダーを駆動する「油圧サーボシステム」にありました。
しかし、油圧システムは致命的な弱点を抱えていました。巨大な内燃機関やポンプが必要で騒音が凄まじく、高圧オイルの漏れ(リーク)が頻発し、何より1台数千万円から数億円に及ぶ天文学的な製造コストがかかることです。
私費2万元(約40万円)で四足歩行「XDog」を独力自作
上海大学の修士論文として、世界で初めて外転型ブラシレスDCモーターと低速比・遊星減速機を組み合わせたQDD(準ダイレクトドライブ)方式の歩行ロボットを完成。油圧神話を覆す。
大疆(DJI)を数カ月で退職し、宇樹科技(Unitree)を創業
XDogの動画がYouTubeで世界的な反響を呼ぶ。大手ドローン企業の安定した地位を捨て、杭州でわずか数人の仲間とともに商業ロボティクスへの賭けを開始。
四足歩行「Go1」を1.6万元(約35万円)で量産出荷
競合が数百万円で販売していた四足歩行ロボットを「パソコンを買う感覚」の価格帯へ破壊。年間数千台を出荷し、業界初の営業黒字化を達成。
量産型人型ロボット「Unitree G1」を9.9万元(約200万円)で発表
研究室の幻想にとどまっていたヒューマノイドを、現実の製造ラインと教育・開発現場へ解き放つ。徹底した内製化と引き算の設計思想を結実。
大学院の研究室にいた王興興には、潤沢な研究費もなければ、軍事予算のバックボーンもありませんでした。彼がロボット製作のために調達できたのは、自身のわずかな貯金とコンテストの賞金を合わせた2万元(当時のレートで約35万〜40万円)だけでした。
「予算がない」という極限の制約条件こそが、彼に第一性原理からの思考を強制しました。
「油圧がなければ動かないというのは本当か? なぜモーターでは駄目なのか?」
従来の産業用サーボモーターは、小型・高回転のモーターに100:1や200:1といった巨大な減速比のハーモニックドライブ(波動歯車)を組み合わせるのが常識でした。しかし、減速比が大きすぎると、地面からの衝撃が関節に伝わった瞬間にギアが粉砕してしまいます。
そこで王興興が導き出した解が、「外転型の大トルクブラシレスDCモーター」に「低減速比(数分の一から十数分の一程度)の遊星ギア」を直結する「準ダイレクトドライブ(QDD: Quasi-Direct Drive)」方式でした。
減速比を小さく抑えることで、地面からの外力が加わった際にモーター自身が逆回転して衝撃を電気的に吸収(バックドライバビリティ)できるようになり、高価なトルクセンサーや壊れやすい高減速比ギアを排除できたのです。
2016年、王興興がこの手作りのロボット「XDog」のデモ動画をYouTubeに投稿すると、世界のロボティクス研究者コミュニティに激震が走りました。MIT(マサチューセッツ工科大学)の研究チームをはじめ、世界中のラボが「学生がたった40万円で、ボストン・ダイナミクスに近いダイナミックな跳躍歩行を実現した」という事実に言葉を失いました。
大学院修了後、王興興はいったん世界最大手のドローン企業・大疆創新(DJI)に入社します。しかし、整然とした大企業の歯車として働く中で、「自分の手で四足歩行ロボットを社会に普及させたい」という情熱を抑えきれなくなりました。動画を見たエンジェル投資家からのアプローチを機に、彼はわずか数カ月でDJIを退職。2016年8月、杭州の粗末なオフィスで宇樹科技を産声を上げさせました。
3. 「引き算の美学」と反直覚の工学哲学:高額センサーを捨て去る勇気
宇樹科技が成長する過程で、王興興が下した数々の設計判断は、伝統的なロボット工学の教科書から見れば「異端」であり「暴挙」に近いものでした。
その最たる例が、「足裏の6軸力覚センサーの全廃」です。
人型ロボットや四足歩行ロボットが歩行する際、地面から受ける反力を測定することは極めて重要です。そのため、ほぼすべての競合メーカーは、ロボットの足裏に数千ドル(数十万〜百万円単位)する超高精度の「6軸力覚・トルクセンサー」を装着していました。
しかし、足裏のセンサーは歩行時の度重なる着地衝撃によって最も断線・故障しやすいアキレス腱でもあります。
欧米エリート・研究機関のアプローチ
- 足裏に超高額センサーを配置:数千ドルの6軸力覚センサーに依存。着地衝撃で頻繁に破損し校正の手間が膨大
- ハーモニック減速機の過剰採用:高精度だが極めて高価。日本などの専業サプライヤーに納期待ちを握られる
- カーボンとチタンの多用:軽量化のために高価な特殊素材を惜しみなく投入し、製造原価が青天井に跳ね上がる
- 論文優先の過剰スペック:自由度を極限まで増やし、組み立てラインの作業効率や歩留まりを無視
王興興が貫く「引き算の工学哲学」
- 物理センサーを完全排除:モーター電流の微小変化と動的モデル推定により、ソフトウェアで着地反力をミリ秒計算
- ギアとモーターの100%内製化:金型設計から自社で完結させ、部品原価を外部調達の数分の一へと叩き落とす
- 高強度樹脂とアルミダイカスト:自動車の量産サプライチェーンと同じ素材を採用し、秒単位で部品を成形
- ネジ留め10分で組める構造美:現場作業員が特殊な治具なしで一気に組み立てられるモジュール分割
王興興は開発会議の席で、足裏のセンサーを外すよう命じました。技術陣からは「センサーがなければ地面の凹凸を検知できず、転倒リスクが高まる」と猛反対が起きました。しかし王興興はこう説得しました。
「人間は足の裏にひずみゲージを貼って歩いているわけではない。筋肉の張り具合と内耳の三半規管だけでバランスを取っている。モーターに流れる電流値をミリ秒単位で監視し、アルゴリズムで逆算すれば、物理センサーなど不要だ」
結果として、宇樹のロボットは足裏の物理センサーを全廃したにもかかわらず、競合以上の悪路走破性を発揮し、何より「故障率の激減」と「数千ドル単位のコスト削減」を同時に達成しました。
「エンジニアが陥る最大の罠は、目の前の問題を解決するために新しい部品やセンサーを追加してしまうことだ。真に優れた設計とは、部品を削ぎ落とすことで、故障する箇所そのものをこの世から消滅させることにある」—— 宇樹科技(Unitree Robotics)創業者兼CEO 王興興(Wang Xingxing)
この「引き算の美学」は、人型ロボット「G1」の外装や構造設計にも徹底されています。
テスラのOptimusやFigure AIのロボットが、美しい曲面を描く高価な特注パネルで全身を覆っているのに対し、G1は極限まで無駄を削ぎ落とした工業的骨格をむき出しにしています。高価なカーボンファイバーの代わりに、自動車部品で使われる耐久性の高いエンジニアリングプラスチックと精密アルミダイカスト成形品を採用。これにより、金型を一度起こせば、数分で1台分のフレーム部品を数十ドルの原価で打ち出せる量産体制を確立したのです。
4. なぜ競合は200万円で人型を作れないのか:組織論と垂直統合の冷徹な計算
「アイデアは真似できても、この価格とスピードは真似できない」——。 ロボティクス界のエンジニアたちが宇樹科技に対して最も恐れを抱いているのは、ハードウェアのスペックそのものよりも、それを裏支えする「組織の構造」と「冷徹な財務規律」です。
シリコンバレーや米東海岸のロボットスタートアップの多くは、名門大学の教授やポスドクが集まり、数億ドル(数百億円)のベンチャーキャピタル資金を調達してスタートします。彼らは潤沢な資金を武器に、スイスのMaxonモーターや日本のハーモニック・ドライブ・システムズといった名門サプライヤーから、カタログ最高峰の部品を定価で購入して組み立てます。
その結果何が起きるでしょうか。 モーター1個で数十万円、アクチュエータ全体で数百万円、30箇所以上の関節を組み合わせれば、部品原価だけで1,000万円を突破してしまうのです。
| 比較項目 | 宇樹科技(王興興のエンジニアリング哲学) | 欧米スタートアップ(Figure・1X等) | 伝統的大手メーカー(ホンダASIMO等) |
|---|---|---|---|
| 開発の主導権 | 現場の創業者自らがCADとコードを直接統括 | 学術系Ph.D.とプロ経営者の分業 | 縦割りの巨大開発部門と合議制 |
| コアコンポーネント | モーター・ギア・基板・ドライバーを100%内製 | 外部の専業サプライヤーから高額調達 | 独自開発だが社外サプライヤーに委託 |
| 材料・製造プロセス | 高強度樹脂・アルミダイカスト(射出成形) | カーボン複合材、チタン、3D金属積層 | 職人による削り出し、ハンドメイド |
| 初期量産時の本体価格 | 9.9万元(約200万円〜) | 数千万円規模(当面はB2B限定リース) | 数億円相当(非売品・リース限定) |
| キャッシュフロー体質 | 四足歩行の商用販売で黒字化・自己資本先行 | VCからの巨額資金調達(赤字前提) | 本業(自動車等)の巨額R&D予算で補填 |
| 試作のイテレーション | 数日〜1週間単位で金型・基板を社内修正 | 部品発注・納期待ちで数カ月単位 | 年単位の開発承認フェーズ |
王興興が創業初日から下した最も重要な経営判断は、「コア部品の完全内製化」でした。
モーターの磁気回路設計、ステーターの巻き線方式、遊星歯車の歯形設計、インバーター回路のレイアウトに至るまで、すべてを自社の社内エンジニアが設計しました。 外部の専業メーカーから買えば1個2,000ドルするアクチュエータを、自社で設計して近隣のサプライチェーン工場で加工させることで、1個150ドル以下のコストで作れるようにしたのです。
さらに、宇樹科技が拠点を置く杭州市ビン江区は、車で2時間圏内に寧波の金型工場、台州のギア加工クラスター、温州の電子コネクタ街、そして深圳の高速基盤実装(SMT)サプライチェーンを擁する、世界最強のハードウェア製造密集地帯です。
午前中にCADデータを修正すれば、午後にはバイク便で試作サンプルが届き、夜には組み立ててトルク試験ができる。シリコンバレーのエンジニアがサプライヤーからの納品を3週間待っている間に、王興興のチームはすでに5回もの設計イテレーションを完了させているのです。
そして、王興興の経営哲学で特筆すべきは、「四足歩行ロボットで確実に現金を稼ぎ、その利益で人型ロボットを開発した」という規律です。
多くのAIロボット企業が「将来の巨大なビジョン」だけを語り、製品を1台も売らないまま巨額のキャッシュを燃やし尽くしていく中、宇樹科技は小型四足歩行の「Go1」「Go2」や産業用「B2」を大学、研究機関、送電線検査、そして個人のガジェット愛好家へ何千台も販売しました。自活できる健全なキャッシュフローを確立していたからこそ、株主やVCの短期的な思惑に振り回されることなく、9.9万元という「他社を皆殺しにするような価格設定」を毅然と打ち出すことができたのです。
5. ホンダASIMOが残した教訓と、日本のモノづくりへの静かな問いかけ
王興興の歩みと宇樹科技の躍進は、かつて世界最強のロボット大国であった日本の産業界に対しても、極めて深い思索を迫っています。
日本は1980年代から2000年代にかけて、世界の二足歩行・人型ロボット研究を圧倒的にリードしていました。 その象徴が、本田技研工業(ホンダ)が開発した「P2」「P3」、そして「ASIMO(アシモ)」です。
宇樹科技が体現する「具身智能の量産エコシステム」
工学的引き算と垂直統合。研究室のプロトタイプを世界の生活・産業現場へ直結する製造基盤
100%内製QDDアクチュエータ
モーター、減速機、エンコーダー、ドライバーを自社設計。他社が追随不可能な原価構造を構築
強化学習 Sim-to-Real
数万回のシミュレーション転倒学習により、高額センサーなしで段差走破や外乱復帰を実現
長江デルタ精密加工網
杭州・寧波・深圳の製造エコシステムをフル活用し、試作から金型量産までを数日スパンで反復
四足実売による自立的黒字化
VCの資金調達依存から脱却。教育・検査・コンシューマー向け実売のキャッシュフローで人型へ投資
階段を昇り降りし、滑らかに走り、トレイに乗せたティーカップを運ぶASIMOの姿に、世界中の人々が未来の生活を夢見ました。しかし、2022年3月、ホンダはASIMOの開発を静かに終了し、その歴史に幕を下ろしました。
なぜASIMOは、人々の日常や工場にやって来なかったのでしょうか。
それは、ASIMOがどこまでも「ホンダの技術力を誇示するための、億単位の工芸品」であり続けたからです。 1台のASIMOを動かすためには、何人もの専任エンジニアが付き添い、定期的な分解整備が必要でした。部品の1つひとつが職人技のような精密加工で作られた特注品であり、1台あたりの推定製造コストは数億円に達していました。「誰もが買える価格で大量生産する」というビジネスの土俵に乗らないまま、20年の歳月と巨額の予算を消費してしまったのです。
ソニーが誇った初代「AIBO」も同様のジレンマを抱えていました。技術としては時代を15年先取りしていましたが、量産コストと事業採算性の壁を乗り越えられず、2006年に一度撤退を余儀なくされました。
日本のモノづくりは、極限の精度、ミクロン単位の公差、完璧な信頼性を追求するあまり、「多少の精度を捨ててでも、コストを1桁下げて世界中にばら撒く」という野蛮なダイナミズムを失ってしまったのではないでしょうか。
王興興は、自らを「偉大なサイエンティスト」だとは考えていません。 彼は自身を、どこまでも「現実世界の製造コストと物理法則に仕える職人であり、現実主義のプロダクトマネージャー」だと定義しています。
「人型ロボットが本当に世界を変えるのは、最新のAI大モデルが載ったときではありません。街角のホームセンターやネット通販で、誰もが躊躇なくポチれる価格になったその瞬間です」
研究室のガラスケースの中から、泥臭い工場の組み立てラインへ。 王興興が机の上のモーターとネジを見つめながら切り拓いた道は、これからのAI時代における「ハードウェアの勝者の条件」を、何よりも雄弁に物語っています。
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