1. 「AIの冬」がもたらした冷徹な通達:社内全社メールに刻まれた「1+X」の衝撃
2024年の冬の入り口、上海・徐匯区の商湯科技(SenseTime)本社において、全社員のメールボックスに届いた一通の全社通知が社内に激震を走らせました。差出人は、創業者の一人であり董事長兼CEOを務める徐立(Xu Li)氏。その文面は、上場ハイテク企業トップが発するものとしては異例なほど、自らの過去の成功体験を冷徹に否定する言葉で満ちていました。
「我々はこれまでの『手作業によるAI工房(小作坊)』の枠組みを完全に解体する。自らを切り裂き、1+Xの新たな身体へと生まれ変わらなければ、次世代の知能化の波を生き残ることはできない」
この通達が意味したものは、単なる部門の統廃合ではありませんでした。香港中文大学(CUHK)の湯暁鴎(Tang Xiao’ou)教授の研究室から端を発し、ソフトバンク・ビジョン・ファンドやアリババなどから累計50億ドル以上を調達、2021年末には時価総額1兆円超で香港証券取引所(HKEX: 0020)に上場を果たした「中国AI四小龍の絶対的筆頭」が、10年間守り続けてきた自らの事業基盤を真っ向からかなぐり捨てる宣言だったのです。
「個別カスタマイズの受託開発という麻薬にすがり、スケールしないアルゴリズムを人海戦術で量産する時代は完全に終わった」徐立(商湯科技 董事長兼CEO・社内全社書簡より)
当時、商湯の財務状況は極めて深刻な危機に瀕していました。2018年の上場準備期から積み上がった純損失の累計額は400億元(約8,800億円)を突破。米国の制裁リスト(Entity List)入りによる半導体調達の制約に加え、2023年末には精神的支柱であった湯暁鴎教授の急逝という底知れぬ痛手に見舞われていました。市場からは「AIバブルの残骸」「研究室から出られない赤字製造機」という冷酷な烙印が押され、株価は公募価格を大きく割り込んで低迷を続けていました。
その窮地において徐立氏が選んだのは、従来のビジネスを延命させるための守りの経費削減ではなく、企業の骨格そのものを粉砕して再構成する「1+X」の大手術でした。
「1」とは、上海臨港の超巨大人工知能計算センター(AIDC)をコアとする計算基盤「SenseCore(商湯大装置)」と、自社開発の大規模基盤モデル「日日新(SenseNova)」を融合させたAIクラウド専業の母体。そして「X」とは、スマート自動車事業である「絶影(SenseAuto)」や家庭向け知能ロボット「元蘿蔔(SenseRobot)」など、採算性と成長性を持つ特定領域を独立分社化し、外部資金と独立したインセンティブで自走させる生態系企業群です。
長年「何でもできるAI総合商社」を気取っていた巨人は、なぜ自らをバラバラに解体しなければならなかったのか。そこには、「AI 1.0」の時代に世界中のテクノロジー企業を呑み込んだ、構造的な「受託開発の罠」に対する血みどろの反省がありました。
2. 累計400億元の出血が暴いた「AI 1.0」の構造的限界と受託開発の罠
商湯がかつて経験した苦闘を理解するには、ディープラーニング黎明期から2022年頃まで続いた「判別型AI(AI 1.0)」のビジネスモデルの宿痾を解剖する必要があります。
当時の商湯、曠視(Face++)、依図(Yitu)、雲従(CloudWalk)からなる「AI四小龍」の主力事業は、地方自治体向けのスマートシティ(安防・交通監視)や大手銀行向けの顔認証システムでした。メディアは「アルゴリズムの精度で世界首位」と持て囃しましたが、その舞台裏の実態は極めて過酷な「SIer(システムインテグレーター)業務」そのものでした。
カメラの画角が10度変わるだけで認識率が落ちるため、現場ごとに専任のエンジニアを派遣してアノテーション(正解ラベル付け)をやり直す。顧客である地方政府や国有企業からは「既存のレガシーサーバーと繋げ」「この特殊なカメラ機器にも対応しろ」と無数の個別カスタマイズを要求される。結果として、ソフトウェア企業であるはずの商湯は、ハードウェアの調達や配線工事まで請け負うことになり、売上総利益率は年を追うごとに圧迫されていきました。
- 案件ごとのモデル調整: 顧客やカメラごとに個別モデルを訓練し、ソフトウェアの再利用性が極めて低い
- 長大な売掛金サイト: 自治体や大企業向けの個別案件が多く、回収に1〜2年を要し手元流動性を圧迫
- ハードウェア調達の抱き合わせ: 粗利益率が低いサードパーティ機器の納品に追われ、営業利益率が構造的赤字に転落
- 標準API・MaaS提供: 「日日新」基盤モデルをAPI経由で展開し、開発工数を限界費用ゼロへ漸近
- 即時課金と経常収益: トークン消費およびコンピュート時間単位のAIクラウド課金によるキャッシュフロー正常化
- X事業の資本自立: 自動運転「絶影」などを独立子会社化し、外部調達と独立CEOで自律的な黒字化を追求
さらに致命的だったのが、支払いサイクルの長期化でした。地方政府の財政引き締めや不動産市場の減速に伴い、スマートシティ関連の売掛金は数年間にわたって滞留。決算期を迎えるたびに数十億元規模の減損損失(貸倒引当金)を計上せざるを得ず、稼いだはずの粗利が紙の上の数字となって消え失せていきました。
「高い技術を持ったトップサイエンティストたちが、現場のカメラ配線や受託コードのバグ修正に忙殺されている」。創業初期から研究部門を率いていたMomenta創業者の曹旭東氏や、後にMiniMaxを立ち上げる閆俊傑氏といった名立たる俊英たちが相次いで商湯を去っていった背景にも、この「スケールしない人月ビジネス」に対する強い閉塞感がありました。
2022年末、OpenAIがChatGPTを発表した瞬間、徐立氏は確信しました。少数のパラメータを持つ個別モデルを現場ごとに手作業で作る時代は終わった。すべての知能は、巨大な計算インフラと単一の基盤モデル(Foundation Model)から創発する時代へと不可逆的にシフトしたのだと。
3. 「1」の賭け:上海臨港の4.5万基GPUと日日新大規模言語モデル(LLM)の産業実装
徐立氏が掲げた「1」の核心は、商湯を「AIアルゴリズムの受託会社」から「知能化時代のスーパーコンピューティング・インフラプロバイダー」へと定義し直すことでした。
多くの中国テック企業がChatGPTの登場に慌てて小規模なオープンソースモデルの微調整(ファインチューニング)でお茶を濁していた頃、商湯には他社が持たない決定的な武器がありました。それが、上場資金の多くを投じて上海・臨港新片区に建設していた「商湯大装置(SenseCore)」、すなわちアジア最大規模のAIDC(人工知能計算センター)です。
| 比較項目 | 商湯大装置(SenseCore AIDC) | 一般的なクラウドアライアンス |
|---|---|---|
| 総演算能力 | 20,000 PFLOPS(20 EFLOPS)超 | 数千 PFLOPS 規模の分散プール |
| GPUクラスタ規模 | 45,000基以上(国産AI半導体を含むハイブリッド) | 数千〜1万基前後 |
| ネットワーク構造 | 超大規模RDMAノンブロッキングファブリック | 標準的InfiniBandまたはRoCE混在 |
| ビジネスモデル | AIクラウド+基盤モデルMaaS(トークン課金) | 汎用仮想マシン(IaaS)の時間貸し |
| 売上への寄与 | グループ総売上の60%〜80%を牽引 | 周辺サービスにとどまる |
総面積13万平方メートルに及ぶこの計算センターには、現在45,000基を超える高性能GPUが連結され、総演算能力は20,000 PFLOPS(FP16)を超えています。米国の輸出規制を予見して早期に確保した演算リソースに加え、ファーウェイ(昇騰)や寒武紀(Cambricon)といった国産AI半導体を混在クラスタとして稼働させる異種計算基盤ソフトウェアを内製化していたことが、強力な防波堤となりました。
この圧倒的な計算基盤の上で訓練されたのが、自社の大規模言語・マルチモーダルモデル「日日新(SenseNova)」シリーズです。2023年4月に初代を発表して以来、商湯はわずか2年余りでバージョン5.5、さらにはネイティブマルチモーダル推論を備えたV6 / U1 Proへと急速に進化させました。
何より劇的だったのは、マネタイズの構造変化です。従来の商湯は、1件あたり数千万円〜数億円のプロジェクトを数カ月かけて入札し、数年かけて代金を回収していました。しかし現在の「1」のビジネスは、API経由で「日日新」のトークンを消費させるか、AIDCの演算リソースを月額サブスクリプションで貸し出すモデルです。
顧客リストには、中国銀行や招商銀行といった巨大金融機関、金山弁公(WPS Office)、さらには算力不足に悩む新興の生成AIスタートアップが名を連ねました。結果として、2024年から2026年にかけて商湯の生成式AI(Generative AI)関連売上は前年同期比255%超という驚異的なペースで急拡大。かつて売上の大半を占めていたスマートシティ事業を完全に逆転し、全社売上の約8割を生成AI事業が叩き出すという劇的な事業構造転換を成し遂げたのです。
4. 「X」の切り札:自動運転「絶影」の分社化と自動車メガサプライヤーへの脱皮
母体である「1」をクラウドと基盤モデルに研ぎ澄ます一方で、現場での泥臭いインテグレーションが不可欠なバーティカル領域において、徐立氏が切った最大のカードが「X」の切り札——スマートモビリティ子会社「商湯絶影(SenseAuto)」の完全自律化でした。

なぜ、有望な成長株である車載事業を親会社の中に留めておかず、独立企業へと分社化したのか。そこには、自動車産業特有の冷徹な力学がありました。
自動車メーカー(OEM)にとって、ADAS(先進運転支援システム)やスマートコックピットのサプライヤー選定は、5年から10年にわたる長期の運命共同体契約です。親会社が巨額の赤字を垂れ流し、毎年のようにリストラを繰り返している状態では、トヨタやホンダ、あるいは吉利や比亜迪といった自動車巨頭の調達部門は契約書に判を押すことを躊躇します。事業を法的に切り離し、独自の取締役会と資金調達ルートを持たせることで、自動車業界における信用力を担保する必要があったのです。
絶影は、「駕(自動運転)」「艙(スマートコックピット)」「雲(車載AIクラウド)」の3つの軸で、外資系サプライヤーであるボッシュ(Bosch)やコンチネンタル、モービルアイ(Mobileye)の牙城を崩しにかかりました。
特に技術的転換点となったのが、世界的に権威のあるコンピュータビジョン学会CVPR 2023で最優秀論文賞(Best Paper)を受賞した自動運転フレームワーク「UniAD(Unified Autonomous Driving)」の量産実装です。従来のモジュール型(知覚、予測、計画がバラバラに分かれた構造)を全廃し、一つの巨大なニューラルネットワークで入力画像から直接車両の軌道を生成するエンドツーエンド自動運転を確立。
さらに車内空間においては、小米汽車(Xiaomi EV)の「小愛同学」の基盤技術支援や、吉利傘下のプレミアムEVブランドへのマルチモーダルエージェント供給など、ハードウェアと知能が密結合する最前線でデファクトスタンダードの座を奪取。絶影の搭載車両は累計200万台を突破し、独立した黒字化軌道を描き始めています。
5. 代償としての組織出血:痛みを伴うリストラと日本産業界への強烈な鏡像
商湯科技の「1+X」への脱皮は、教科書に載るような美しいサクセスストーリーなどではありません。それは、数千人規模の解雇、売上高の一時的な急減、そして精神的支柱の喪失という、極めて重い「代償」の上に成立した外科手術でした。
ピーク時に8,000人近くに達していたグループの総人員は、従来のスマートシティ受託部隊や低採算のプロジェクトチームを中心に大幅に削減されました。かつて同社の屋台骨であった智慧城市(スマートシティ)事業の売上は、わずか2年で半分以下にまで激減。長年付き合いのあった地方自治体の顧客からは「なぜ仕様変更に対応してくれないのか」「商湯は冷たくなった」という激しい反発が巻き起こりました。
さらに、2026年上半期に同社が国際財務報告基準(IFRS)ベースで記録した初の純利益(約6.17億元)も、市場は手放しで賞賛しているわけではありません。この黒字の少なからぬ部分は、「X」として分社化した子会社の株式評価益や資産売却益といった一過性の金融要因によるものであり、非IFRSベース(Non-IFRS)の営業実態では依然として小幅な赤字が残っています。巨額のキャッシュを貪り食うAIDCの設備投資競争の中で、真の「自律的キャッシュフロー」を確立できるかどうかの戦いは、今なお刃渡りの途上にあります。
しかし、この壮絶な再編劇が投げかける示唆は、中国国内に留まりません。むしろ、海を隔てた日本のITおよび電機産業界にこそ、最も痛烈な鏡像として突き刺さります。
富士通、NEC、日立製作所、あるいはNTTデータ——。日本の名立たる大手テクノロジー企業は今なお、官公庁やメガバンクからの「個別仕様に合わせた受託開発(SIerビジネス)」で巨額の売上と安定した利益を稼ぎ出しています。しかしそのぬるま湯の構造こそが、グローバルで通用する標準化されたソフトウェアプラットフォームや、自前の計算インフラを育てる野心を奪ってきた元凶でもありました。
「受託の売上は甘い蜜だが、企業の創造性を麻痺させる劇薬だ。自ら痛みを引き受けてその腕を切り落とせる者だけが、次の技術サイクルの切符を手にできる」中国テック系投資ファンド・マネージングパートナー
かつて商湯は、日本市場に対しても極めて強い熱量を持って進出していました。2016年に日本法人を設立し、本田技研工業(ホンダ)と長期の自動運転共同開発契約を締結。茨城県常総市には廃校を活用した専用の自動運転テストコースを開設するなど、日本のものづくりとAIの融合を誰よりも早く試みた企業でした。その商湯が、日本的な「相手の要望に細かく寄り添う受託型開発」の限界を悟り、自らを解体して「計算基盤×基盤モデル」のプラットフォームへと舵を切った事実は、示唆に富んでいます。
個別最適の呪縛を断ち切り、自らの過去を否定してでもスケーラビリティの側に賭けることができるか。累計400億元の出血と数千人の痛みを代償にして商湯・徐立氏が断行した「1+X」の大手術は、AI 2.0という新たな時代の激流の中で、すべてのハイテク企業が突きつけられている「生存のための処方箋」そのものなのです。
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