1. 買収完了からわずか数ヶ月:美団の傘下で起きた「想定外の空中分解」
「これまでの15年間、決して順風満帆ではなかった。負けては立ち上がり、また挑むことの連続だった」
2023年8月下旬の深夜、北京・中関村のオフィス街。中国の深層学習フレームワーク界の草分けとして知られる袁進輝(ユアン・ジンフイ)は、自身のSNSに静かな決意を投稿しました。それは、自らが立ち上げたスタートアップを大手企業へ売却してから、わずか5ヶ月足らずで再び独立し、ゼロから会社を登記した瞬間でした。
時計の針を2023年春に戻します。当時、ChatGPTの登場によって世界中で「大規模言語モデル(LLM)狂乱」が吹き荒れていました。無問芯穹(Infinigence AI)が異種混合チップの統合基盤へ切り込み、清程極智(Qingcheng Extreme)が超大規模クラスタのシステム最適化を担い、月之暗面(Moonshot AI)のKimiが長文処理で急浮上する前夜のことです。中国テック界で伝説の共同創業者として知られる美団(Meituan)元副会長の王慧文(ワン・フイウェン)は、5,000万ドル(約75億円)の自己資金を投じ、汎用人工知能(AGI)を追求する新会社「光年之外(Light Year Away)」を電撃設立しました。
その王慧文が、モデル開発の中核基盤として白羽の矢を立てたのが、袁進輝が2016年に創業した一流科技(OneFlow)でした。
清華大学で計算機科学の博士号を取得し、マイクロソフトアジア研究院(MSRA)で分散並列コンピューティングを研究してきた袁進輝は、グーグルのTensorFlowやMetaのPyTorchに対抗できる自前の分散訓練フレームワークとしてOneFlowを開発してきました。技術的な完成度は国際的にも高く評価されていたものの、オープンソースの標準化競争においてMetaのPyTorchが築いた強固なエコシステムを崩せず、一流科技は深刻な資金枯渇に直面していました。
王慧文によるOneFlowチームの買収は、巨額の計算リソースと潤沢な資本を手に入れ、エンジニア全員の雇用を守るための「起死回生の救済」となるはずでした。
しかし、スタートアップの現実は残酷でした。買収契約が締結されてからわずか数ヶ月後の2023年6月、陣頭指揮を執っていた王慧文が重度のうつ病を患い、突如として事業の第一線から離脱。残された光年之外は、親友である美団会長の王興(ワン・シン)が名目上わずか1ドルと負債・投資資本の引き受けによって急遽救済買収することになりました。
美団という巨大生活インフラ企業の内部に取り込まれた袁進輝のエンジニア部隊。しかし、フードデリバリーや地域生活アプリを中核とする巨大組織の中で、最先端のオープンソースAIインフラを愚直に追求することは極めて困難でした。
「ここで大企業の一部署として埋もれるのか、それとも再び荒波へ漕ぎ出すのか」。袁進輝は美団の経営陣と膝を突き合わせて交渉を重ね、核心となる開発陣とともに再び独立する道を選びました。こうして2023年8月、新会社硅基流动(SiliconFlow / シリコンフロー)が産声を上げたのです。
2. 「PyTorchの呪縛」が生んだ教訓:モデル訓練という泥沼を捨てた日
再び荒野に立った袁進輝が下した最初の戦略的決断は、かつての自らのアイデンティティを完全に否定することでした。
それは、「自社で基盤モデルを訓練しない」「モデルの訓練フレームワーク競争から完全に手を引く」という選択です。
訓練フレームワークと巨大モデルの沼
- PyTorchの厚い生態系:学術論文と世界中の開発者がPyTorchに固定され、移行障壁が極大化
- 巨額の計算資源の浪費:数十億円のGPUクラスタを燃やして独自モデルを作っても、数ヶ月で陳腐化
- マネタイズの欠如:ソフトウェア単体では対価を払わない中国市場で、売上が立たず受託開発へ転落
推論特化とオープンモデルのToken工場
- 推論市場への全振り:学習需要は一過性だが、社会に浸透した後の推論コストこそが長期の8割を占める
- 中間層の標準化:GPUチップと上流アプリを繋ぐ高速化ランタイム「OneDiff」「SiliconLLM」に集中
- オープンモデルのAPI化:DeepSeekやQwenなど最高峰のオープン重みをどこよりも安く速く提供
当時、中国のテック業界では百度(Baidu)、アリババ(Alibaba)、テンセント(Tencent)の巨人勢に加え、智譜AI(Zhipu AI)や月之暗面(Moonshot AI)といったユニコーン企業が「百模大戦」と呼ばれる熾烈な基盤モデル訓練競争を繰り広げていました。数十億円から数百億円のベンチャーキャピタル資金が、米エヌビディア(Nvidia)のGPUサーバーのレンタル費として煙のように消えていく光景が日常でした。
袁進輝は、OneFlowでの7年間の苦闘を通じて痛感していました。モデルそのものを作るゲームは、資本力と最新半導体の調達力を持つ巨大クラウド企業と少数のトップ研究所の寡占に収束する。しかし、モデルが普及した後に社会全体で必要とされるのは「学習」ではなく、エンドユーザーが文字や画像を生成するたびに発生する「推論(Inference)」の計算コスト削減である、と。
「ゴールドラッシュで金を掘る側に回ってはいけない。スコップを研ぎ、最も安く水を配る側に回るべきだ」
袁進輝は、自社でのLLM事前学習を一切放棄。オープンソースとして公開された世界最高峰のモデル(DeepSeek、通義千問・Qwen、MetaのLlama、Stable Diffusionなど)を、極限まで高速かつ低コストで稼働させる「推論エンジン」と、それをAPIとして開発者に配給するクラウドプラットフォーム「SiliconCloud(硅基流动クラウド)」の開発に全リソースを集中させました。
独自の分散並列アーキテクチャでTensorFlow/PyTorchに対抗するも、オープンソース開発者コミュニティの壁に阻まれ資金難に陥る。
王慧文のAGI構想に合流するも、創業者の健康問題で美団へ緊急買収。巨大組織での研究開発継続を断念し再独立を決断。
モデル訓練を捨て「AI推論インフラ」へ特化。画像生成加速エンジン「OneDiff」とLLM推論基盤の開発に着手。
SiliconCloudの登録開発者が1,000万人を突破。累計30億元超の調達を経て、香港証券取引所のハイテク新興枠「第18C章」へ上場申請。
3. 「トークン工場」の創設:DeepSeekを武器に1000万人を集めた加速技術
袁進輝の賭けは、2024年以降のオープンソースAI界における地殻変動によって劇的な結実を見せました。
その最大の契機となったのが、中国・杭州のクオンツファンド・幻方量化(High-Flyer)から誕生したDeepSeek(ディープシーク)の台頭です。OpenAIの最上位モデルに迫る性能を持ちながら、重みと論文を完全無償公開した「DeepSeek-V2」「DeepSeek-V3」、そして思考推論モデル「DeepSeek-R1」の衝撃は、世界のAI開発者を熱狂させました。
しかし、どれほど優れたオープンモデルであっても、数千億パラメータの巨大モデルを自前のサーバーで安定して動かすには、高度なGPUクラスタの構築技術と莫大な電気代が必要です。
ここでSiliconFlowが放ったのが、自社開発の推論加速ライブラリ「OneDiff」およびLLM高速サービングエンジンを武器にした、「爆速かつ格安のAPI配給」でした。
エヌビディアのGPU内部で行われる行列計算とメモリ帯域(HBM)のボトルネックを徹底的に解析し、カーネルの融合やキャッシュの動的再配置を最適化。従来の標準的なオープンソース実装と比較して、生成トークン速度を2倍から3倍に引き上げ、同一サーバーあたりの同時並行処理能力を飛躍的に向上させました。
さらに、小規模モデルや標準モデルの推論APIを「完全無料」で開放する大胆なフリーミアム施策を打ち出しました。
中国のAIアプリ開発者コミュニティにおいて、袁進輝は一躍「サイバー生仏(無料トークンを恵んでくれる菩薩)」と称されるようになり、SiliconCloudの登録ユーザー数は急増。創業から3年足らずの2026年半ばには、登録開発者・個人ユーザー数が1,000万人を突破し、法人顧客は1万社を超え、1日あたりの処理トークン数はピーク時で1兆回の大台に達したのです。
4. 「1円売るために1.24円を燃やす」:クラウド巨人の価格破壊と逆ザヤの暗雲
しかし、華々しいユーザー獲得の数字と評価額77.4億元(約1,600億円)というユニコーンの栄光の裏側には、独立系インフラ企業が抱える構造的な「出血の泥沼」が口を開けていました。
2026年半ば、硅基流动が香港証券取引所(HKEX)のハイテク新興企業向け上場枠「第18C章」に基づいて提出した招股書(新規株式公開目論見書)によって、その冷酷な財務実態が初めて白日の下に晒されたのです。
| 財務指標(2025年実績) | 金額(人民元) | 日本円換算(1元=21円) | 収益構造の分析 |
|---|---|---|---|
| 通期売上高(Revenue) | 5,533.0 万元 | 約 11.6 億円 | API従量課金および法人専用クラスタ契約 |
| 売上原価(Cost of Sales) | 6,863.2 万元 | 約 14.4 億円 | GPUサーバーの賃借料・データセンター電力費 |
| 売上総利益(Gross Profit) | -1,330.2 万元 | 約 -2.8 億円 | 売上総利益率(毛利率):-24.0% |
| トークン単位原価 | 1.24 元 | 約 26.0 円 | 1元の売上を得るために1.24元の計算原価を消費 |
| 研究開発費(R&D) | 1億 4,200 万元 | 約 29.8 億円 | 分散推論アルゴリズム及び異種半導体適合開発 |
36Krの産業アナリストが指摘した通り、硅基流动のビジネスは「1元のトークンを売るたびに、原価として1.24元が吹き飛ぶ」という深刻な逆ザヤ(売上総利益率マイナス24.0%)に陥っていました。
この異常な収益構造をもたらした要因は、2つの強大な重圧にあります。
第一に、中国メガクラウド勢による「API価格破壊の焦土作戦」です。
2024年春以降、アリババクラウド(阿里雲)、テンセントクラウド、バイトダンス(火山引擎)は、自社エコシステムへ企業を囲い込むため、基盤モデルAPIの価格を相次いで90%から99%値下げする全面戦争に突入しました。メガクラウドは、巨大な自社データセンターの余剰電力と、ストレージや仮想マシンといった高収益の既存クラウド事業から得られる利益を原資に、AIトークンの赤字販売を平然と継続できます。
一方、自前の巨大発電所やハイパースケール施設を持たない独立系の硅基流动は、外部のデータセンター事業者からGPUサーバーを市場価格で賃借しなければなりません。大手クラウドがトークン価格を底値に叩き落とす中で、価格競争に追随すればするほど、サーバー賃借料が売上を上回る構造的赤字が膨張していったのです。
第二に、「開発者の定着性の低さ(チャーンレートの罠)」です。
1,000万人の開発者が集まった最大の理由は「無料枠の気前の良さ」でした。個人クリエイターや学生は、アイデア検証やハッカソンの間だけSiliconCloudの無料APIを使い倒し、本格的な商用サービスへスケールした段階や、社内セキュリティ要件が厳格化された段階になると、自前の社内GPUクラスタへ切り替えるか、巨額の値引きを提示するメガクラウドの長期契約へと流出してしまう現実がありました。
どれほど技術でGPUの効率を2倍に高めても、巨大クラウドが資本力に物を言わせて計算資源をダンピングする市場において、独立系ソフトウェア企業が「生の計算リソース再販」で持続的な利益を出すことの難しさが、マイナス24%の粗利率に浮き彫りとなったのです。
5. 巨大プラットフォームの挟撃:独立系インフラが挑む香港上場の崖っぷち
にもかかわらず、硅基流动の資本調達ラウンドには、中国テック界の錚々たる顔ぶれが名を連ねています。
シード期を支えた奇績創壇(MiraclePlus)や王慧文個人に加え、シリーズAラウンドでは自らもMaaS(Model as a Service)を展開するアリババ(阿里雲)がリード投資家として巨額を出資。さらに智譜AIや商湯科技(センスタイム)、360、中国連合通信(チャイナ・ユニコム)系の国資ファンドに至るまでが相乗りし、累計調達額は30億元(約630億円)を突破しました。
なぜメガクラウドや競合AI企業は、自らと衝突しかねない赤字の独立系インフラに資金を注ぎ込むのでしょうか。
その理由は、米国の対中半導体規制が長期化する中で、エヌビディア製チップだけでなく、ファーウェイの「昇騰(Ascend 910B)」、摩爾線程(Moore Threads)、沐曦(MetaX)といった国産の異種(ヘテロジニアス)AIチップを束ねて動かせる唯一無二の最適化ソフトウェア部隊としての価値にあります。
異なる命令セットと未成熟なドライバを持つ国産チップ上で、DeepSeekやQwenをクラッシュさせずに高速動作させるノウハウにおいて、OneFlow時代からコンパイラと並列化コードを10年以上泥臭く書き続けてきた袁進輝のエンジニア集団は、国家的なサプライチェーン防衛の生命線となっているのです。
この構図は、日本のソフトウェア産業にとっても極めて示唆に富む鏡像と言えます。
日本では現在、さくらインターネットやソフトバンクが経済産業省の巨額助成金を受けて大規模なGPUデータセンターの建設を進めています。しかし、その上で稼働するソフトウェア環境の多くは、依然として米国のオープンソースや標準フレームワークの素の配布版に依存しており、「ハードウェアの限界性能をソフトウェアの力で絞り出す」システム最適化の専門スタートアップは極めて希少です。
ハードウェアへの巨額投資だけでは、米中メガクラウドの資本力と価格破壊に太刀打ちできません。半導体とアプリケーションの結節点に位置し、推論の単位コストを削り落とすインフラソフトウェアの層を誰が握るのか――。
一度は会社を売り、買収先の空中分解に翻弄されながらも、ふたたび泥まみれの戦場へ舞い戻った袁進輝。香港市場での上場審査が進む今、彼が率いる硅基流动の挑戦は、「自前モデルを持たない独立系AIインフラ企業は、クラウド巨人の挟撃の中で真の黒字化を勝ち取れるのか」という、生成AI時代における最も過酷なビジネス実験の最前線に立っています。
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