1. 「風が玄関先まで吹いてきた」:16年のマイクロソフト生活を捨てた決断の夜
2022年暮れ、米シアトル郊外レドモンドのマイクロソフト本社ビルの一室。窓の外に広がる常緑樹の森を前に、姜大昕(ジャン・ダーシン)は言葉を失っていました。手元のラップトップで稼働していたのは、社外秘のテスト環境に配備された初期バージョンのChatGPTでした。
当時、姜大昕はマイクロソフトのグローバル副総裁であり、アジアインターネット工程院(STCA)の最高科学者を務めていました。ニューヨーク州立大学で博士号を取得後、2007年に入社してからの16年間、検索エンジン「Bing」のランキングアルゴリズム、音声アシスタント「Cortana」、クラウド基盤「Azure」や「Microsoft 365」の自然言語処理スタックを最前線で指揮してきた人物です。
「まるで世界全体が自分の真横を凄まじい轟音を立てて疾走し、自分一人だけが強風の中で立ち尽くしているかのような衝撃でした」
後に姜大昕は、その瞬間の心情をメディアの単独取材でそう振り返っています。検索エンジンのクエリ補正やテキスト分類といった、自らが十数年かけて磨き上げてきた古典的NLP(自然言語処理)の体系が、トランスフォーマーと自己教師あり学習の巨大なうねりの前に、一夜にして過去の遺物へと変貌を遂げつつあったのです。
マイクロソフト社内の力学と制約
- 本社の巨額OpenAI傾斜:数十億ドル出資とGPT-4のAzure全社統合が最優先
- アジア研究拠点の役割後退:STCA/MSRAでの独自フロンティアモデル事前学習は凍結
- 巨大企業の部品供給者:「安全なグローバル副総裁の椅子」と引き換えの妥協
2023年春:階躍星辰(StepFun)の創業
- 玄関先の突風:「この突風が自宅の玄関先に吹き荒れるのは一生に一度か二度しかない」
- 自前AGIへの渇望:16年の安定したキャリアを捨て退社届を提出
- 技術理想主義の旗揚げ:上海徐匯区で「知能の不連続ジャンプ(階躍)」を賭けて始動
姜大昕は社内で独自のフロンティア大規模言語モデル開発を提案しました。しかし、すでにOpenAIとの同盟関係を最優先事項と位置づけていたマイクロソフト本社の意思決定マトリクスは、中国拠点の研究チームが独立した巨大基盤モデルをゼロから事前学習することを許しませんでした。大企業の巨大な歯車として生きるか、それとも未踏の荒野へ飛び出すか。
「我々はAGI(汎用人工知能)を目指して集まったのだ。そうでなければ、これほどの優秀な頭脳が人生を賭けて同じ部屋に集まる理由がどこにあるのか」
2023年4月、姜大昕は快適なエグゼクティブの職を辞し、マイクロソフト時代からの盟友であるシステム工学のスペシャリスト・朱亦博らとともに上海の徐匯区に小さなオフィスを構えました。社名は「階躍星辰(StepFun)」。「知能の不連続なジャンプ(階躍)」を成し遂げるという、純粋な技術理想主義を掲げた船出でした。
2. 反直感の第一性原理:「原生マルチモーダル」とMoEを選んだ必然
2023年半ば、中国のテック界は「百模大戦」と呼ばれる狂騒に包まれていました。バイドゥ(百度)、アリババ、テンセントなどの巨大プラットフォーマーから大学発のスタートアップまで、数十社が雨後の筍のように独自の言語モデルを発表し、パラメーター数の多さを誇示していました。
その大半が選んだ道は、オープンソースのLLaMAをベースに中国語コーパスを追加学習させるか、テキスト特化型のDense(密結合)モデルを急造することでした。マルチモーダル機能が必要になれば、既存の視覚エンコーダー(CLIPなど)を外部からパッチのように貼り付ければいい、という安易な妥協が業界を支配していました。
しかし、姜大昕の第一性原理(First Principles)は、この風潮と真っ向から対立するものでした。
単一モダリティの限界認識
テキストのみ、あるいは画像のみの孤立した学習では、物理世界の因果関係を理解できない。
マルチモーダル分離モデルの過渡期
GPT-4V等の理解系とDALL-E等の生成系が別個に動作する継ぎ接ぎアーキテクチャ。
マルチモーダル理解と生成の原生統合(現在地)
視覚・音声・言語を単一のトランスフォーマー潜在空間で同一トークンとして原生処理。
世界モデル(World Model)と物理法則の獲得
時間軸と3次元空間の因果ダイナミクスを予測するシミュレータへと昇華。
汎用人工知能(AGI)の到達
環境と自律相互作用し、人間の複雑な実世界タスクを代行する知能生命体へ。
人間の赤ん坊は、文字テキストだけを何百億語も読んで世界を理解するわけではありません。光を見つめ、母親の声を聞き、積み木に触れるという多感覚のフィードバックを通じて、物理空間の因果関係を内的な認知モデルとして構築していきます。テキストという記号体系だけに閉じたモデルは、真の知能にはなり得ない——これが姜大昕の下した技術的断定でした。
同社が千億パラメーター級の「Step-1V」、そして1兆パラメータを超える「Step-2」において、業界に先駆けてMoE(Mixture of Experts)アーキテクチャを採用した背景にも、反直感的なリアリズムがありました。
米国の大規模モデル企業とは異なり、中国のAIスタートアップは最先端半導体(NVIDIA H100等)の調達において厳しい地政学的制約に直面しています。パラメーター全体を常時活性化させるDenseモデルで1兆規模の計算を回せば、資金力で勝るハイテク巨人に太刀打ちできるはずがありません。
朱亦博CTOが率いるインフラエンジニアリング部隊は、計算グラフの最適化と通信オーバーヘッドの極小化を徹底。トークンごとに必要な専門家(Expert)ネットワークのみを選択的に発火させるMoEを設計することで、1兆パラメーターの表現力を維持しながら、推論コストを従来のDenseモデルの数分の一に圧縮することに成功したのです。
3. 「ユーザー獲得広告(UA)の大量出稿バブル」の拒絶とC端の痛烈な収斂:冒泡鴨の統合が示した冷徹さ
技術の理想を追求する一方で、階躍星辰は創業2年目に手痛いビジネスの現実に直面しました。
2024年前半、中国のコンシューマーAI市場では、月之暗面(Moonshot AI)の「Kimi」が長文処理能力を武器に急浮上し、ショート動画プラットフォームでの大規模な広告出稿(ユーザー獲得広告(UA)の大量出稿)によって数千万人のユーザーを獲得していました。階躍星辰もまた、一般消費者向けに対話型アシスタント「躍問(Yuewen)」と、キャラクター対話型エンタメアプリ「冒泡鴨(Bubble Duck)」の2軸で市場開拓を試みました。
「冒泡鴨」は若いユーザーを中心に一時的な人気を博しました。しかし、ダッシュボードに並ぶ数字を見つめていた姜大昕の表情は険しいままでした。
業界の常套手段:ユーザー獲得広告(UA)の大量出稿(投流)モデル
- 高騰するCAC(1人200〜600円):ショート動画広告で大量のライト層を一斉流入
- 翌月継続率の暴落:エンタメ対話層は課金を拒み、プロモーション停止で消滅
- 現金の急速な燃焼:膨大な推論コストだけが垂れ流され、プロダクト実力を錯覚
姜大昕の下した外科手術的判断
- 単独プロモーションの即時停止:キャラクター対話「冒泡鴨」の単独拡大を凍結
- 知的生産「躍問」への戦力収斂:深い対話と複雑タスク遂行能力の磨き込みへ集中
- 虚飾のDAU指標の全廃:見せかけのトラフィック競争から脱し、ランウェイを死守
広告費を投入すればDAUは跳ね上がるが、プロモーションを止めた瞬間にユーザーは霧のように消えていく。エンタメ対話を楽しむ層は月額課金の支払いを頑なに拒み、サーバーのGPU推論コストだけがキャッシュを削り取る。
「この数字のゲームは我々の目的ではない」
姜大昕は役員会で断を下しました。「冒泡鴨」の独立展開を取りやめ、チーム全体を高度な知的生産を支援する「躍問」へと統合。短期的で見栄えの良いトラフィック数値を追い求めることを固く禁じました。
多くの創業者が投資家のプレッシャーから「数字の粉飾」をやめられずに資金枯渇へと追い込まれていく中、この外科手術的な事業収斂は、階躍星辰のランウェイ(資金維持期間)を決定的に延ばすことになりました。智譜AIが香港証券取引所へのIPO申請で直面した収益化の壁を横目に、同社は無意味なC端消耗戦のリングから静かに降りたのです。
4. 「技術は窓口であり、防壁ではない」:「1+3」体制と端末一体型の活路
「技術そのものは好機を掴むための時間窓(ウィンドウ)に過ぎない。半年もすれば、オープンソースコミュニティや競合が追いついてくる。アルゴリズム単体は、企業の恒久的な堀(モート)にはなり得ない」
これは、科学者出身である姜大昕が、起業家として自らに課した最も冷徹なテーゼでした。
どれほど優れたマルチモーダルモデルを作っても、APIの呼び出し課金だけで生き残ることは不可能です。巨大テック企業がAPI価格の90%値下げ競争を仕掛けてくれば、独立系スタートアップの粗利益率は崩壊します。受託開発のSIerに成り下がれば、エンジニアのリソースは散逸し、AGIの追求など夢のまた夢となります。
このジレンマを打破するために姜大昕が仕掛けたのが、組織構造の劇的な再編でした。
2026年初頭、階躍星辰は産業界を揺るがす人事を発表しました。AIビジョンの旗手であった曠視科技(Megvii)の共同創業者・印奇(イン・チー)を董事長(会長)に招聘したのです。
これにより、階躍星辰のガバナンスは強固な「1+3」体制へと移行しました。
印奇(Yin Qi)会長
資本戦略・ハードウェア産業提携・エコシステム統括(Megvii共同創業者)
姜大昕(Jiang Daxin)CEO
元マイクロソフトグローバル副総裁・STCA最高科学者。AGIロードマップと組織全体の研究開発を指揮。
張祥雨(Zhang Xiangyu)首席科学者
ResNet主著者の天才AIサイエンティスト。原生マルチモーダルモデルの数理・アーキテクチャ設計。
朱亦博(Zhu Yibo)CTO
超大規模クラスタの並列計算・通信最適化の第一人者。1兆パラメータMoEの低コスト推論を実現。
戦略と産業エコシステムを印奇が牽引し、アルゴリズムの極限追求を姜大昕と張祥雨が担い、システムインフラを朱亦博が固める。この役割分担が成立した瞬間、階躍星辰の商業化戦略は「端末一体型(AI + 端末)」へと一気に純化しました。
単なるチャットボットではなく、スマートフォンのOSレベル、そして電気自動車(EV)のスマートコックピットに深く埋め込まれた自律型エージェントOS「Step AOS」の開発です。同社は吉利汽車(Geely)と提携して次世代車載AIを共同開発し、OPPOやHonorといった中国のトップスマホOEMと組んで、画面認識からシステム操作までをローカル+クラウド協調で代行するスマートフォンOS革新エージェント基盤の標準供給者としての地位を固めつつあります。
5. 中国独立系基盤モデル「四小龍」の生存戦略マトリクス
中国の大規模言語モデル業界において、巨額の資金調達を実施して独立を保つ主要スタートアップは、それぞれの創業者の出自と第一性原理に基づき、全く異なる生存ルートを選択しています。
| 企業名 | 創業者 / キーパーソン | 技術的信条 | 商業化の主戦場 | 端末・ハード連携 | 直面するリスクと課題 |
|---|---|---|---|---|---|
| 階躍星辰 (StepFun) | 姜大昕 (元MS副総裁) 印奇 (元Megvii創業者) | 原生マルチモーダル 1兆パラメーターMoE | AI+スマート端末 (スマホOS / EV車載) | 極めて緊密 (吉利、OPPO、Honor等) | 自動車・スマホ大手の内製化圧力と主導権争い |
| 智譜AI (Zhipu AI) | 唐杰 (清華大学教授) 張鵬 (CEO) | GLMアーキテクチャ 学術主導のフルスタック | B2B産業向け受託 官公庁・大企業ソリューション | 中立的(全方位API展開) | 労働集約型プロジェクト化による粗利益率の低迷 |
| 月之暗面 (Moonshot) | 楊植麟 (清華・CMU出身) | 超長文コンテキスト 単一モデルのスケーリング | C端コンシューマー 「Kimi」のサブスク課金 | 希薄(アプリ専業) | 広告ユーザー獲得広告(UA)の大量出稿コストの負担と競合のコンテキスト追従 |
| MiniMax | 閆俊傑 (元SenseTime副総裁) | テキスト・音声・動画の 多感覚同時展開 | グローバルC端エンタメ (Talkie等の海外進出) | 希薄(クラウド専業) | 海外アプリ市場における規制とユーザー離脱リスク |
このマトリクスが示す通り、階躍星辰のポジショニングは明確です。学術的な受託開発の沼に沈むことも、資金を浪費するC端広告合戦に巻き込まれることも拒否し、「ハードウェア端末の頭脳を牛耳るB2B2Cプラットフォーマー」としての活路を見出しています。
6. 基盤モデル「自前主義」の限界とスマート端末連携の勝負所
階躍星辰の歩みと姜大昕の創業哲学は、生成AIの波に揺れる日本のテクノロジー産業界に対しても、極めて示唆に富む鏡像(ミラー)を提示しています。
日本産業界の強みと現在直面する課題
- 世界最高峰の物理資産:ソニーのCMOSセンサー、トヨタの車体製造、キーエンスの精密計測
- ソフトウェアの小粒化:自前主義による数十億〜百億級のガラパゴス小型モデル開発
- 米国クラウドへの丸投げ依存:基盤知能を外部APIに依存し、付加価値の吸い上げを許す
階躍星辰が提示する工学哲学と教訓
- フロンティア級知能の死守:「1兆パラメータの表現力がなければ、実世界の複雑タスクは解けない」
- 物理端末への垂直統合:「知能をOSやEVコックピットに直接埋め込まなければ事業は成立しない」
- 原生マルチモーダルの協調:テキスト・視覚・音声を同一モデルで束ね、物理世界とリアルタイム対話
「技術そのものは好機を掴むための時間窓(ウィンドウ)に過ぎない。アルゴリズム単体は企業の恒久的な堀にはならない。1兆パラメータの知能を物理端末へ垂直着地させ、ユーザーの生活インフラとなって初めて事業は成立する。」
日本の製造業が誇るソニーのイメージセンサー、トヨタやホンダのモビリティ技術、ファナックのロボティクスは、物理世界から膨大なマルチモーダルデータをリアルタイムに吸い上げる世界最高の「目と耳と手足」を持っています。
しかし、そこに接続される知能が「テキストしか読めない借り物のAPI」であったり、「性能の劣るガラパゴスな小型モデル」であったりする限り、真の知能革命を起こすことはできません。
姜大昕が挑んでいるのは、1兆パラメーターというフロンティア級の知能の上限を削ることなく、アルゴリズムの工夫によって制約を突破し、それを実世界のハードウェア端末へと流し込む試みです。WAIC 2026で示された中国のフィジカルAI(身体性AI)(Embodied AI)の爆発的な進展とも呼応するように、AIの戦場は今やチャットウィンドウの中を脱し、物理空間のデバイスへと雪崩れ込んでいます。
「一生に一度か二度しか吹かない突風」の渦中で、姜大昕は安全な港を离れ、荒れ狂う大海へと船を出しました。技術の純粋な高みを目指すことと、冷酷な商業ルールに従うこと——この二律背反を抱え込みながら針路を切り拓く元マイクロソフト副総裁の航海は、世界のAI産業における独立系ベンチャーの生存限界をテストし続けています。
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