1. 2022年冬、ファーウェイ本社で交わされた最後の会話
2022年12月、深センのファーウェイ(華為技術)坂田キャンパスの一室で、幹部たちは一人の29歳の若者を必死に引き留めていました。
男の名は彭志輝(ポン・ジーホイ)。社内では「天才少年プロジェクト」で最高ランクの評価を得ていたトップ研究者であり、ネット上では「稚暉君(ジーホイジュン)」として知られる中国テック界最大のスタークリエイターです。自動走行する自転車、極小の二足歩行ロボット、透明スクリーンの携帯端末――彼が週末に自室でガレージ開発した奇抜なハードウェア動画は、毎回数百から数千万回の再生を叩き出し、中国の若手エンジニアにとっての憧れの象徴でした。
ファーウェイでの処遇は誰もが羨むものでした。年俸は2000万円を超え、独自の研究予算と自由裁量が与えられていました。しかし、彭志輝が差し出した辞表の意思は固かったといいます。
でも、自分の人生の残り時間を逆算したとき、どうしても今やらなければならないことが一つだけあったんです。ハードウェアとAIが物理世界で完全に交差する瞬間が今来ていて、そこに自分の全存在を賭けなければ一生後悔すると思いました」。
退職の翌月、彼は上海に「智元ロボット(AGIBOT)」を登記しました。ガレージの趣味人から、数十人のエンジニアを率いて工場を走り回るスタートアップのファウンダーへの転身でした。
2. なぜ「オモチャ」ではなく、最も過酷な「工場」を選んだのか
ロボットベンチャーを立ち上げた起業家が最初に考えるのは、手堅いマネタイズです。卓上のおしゃべりロボットや、教育用のプログラミングキット、あるいは四足歩行のロボット犬を作れば、一定のファン層がすぐに買ってくれます。
しかし、稚暉君は創業初日の全社ミーティングで、チームに対してこう告げました。
「我々はエンタメロボットは作らない。家庭用のお手伝いロボットも作らない。目指すのは、自動車の溶接ラインと3C(PC・スマホ・家電)工場の組立ラインで、24時間黙々と働き続ける産業ロボットだ」

この方針に、初期の投資家たちは難色を示しました。工場への導入は、要求される信頼性が一般消費者向けとは桁違いだからです。家庭用なら「たまにコップを落とす」愛嬌で許されても、時速数十台で流れる自動車の組立ラインでは、一度の作業停止(チョコ停)が数千万円の損失を生みます。
なぜ、あえてその修羅場を選んだのか。そこには、過去のロボット史に対する稚暉君の冷徹な分析がありました。
日本の二大ロボットが残した「教訓」
稚暉君はインタビューで、しばしば日本のロボット開発の歴史に言及しています。
ホンダ ASIMO が直面した壁
- コストと実用性の乖離:1体数千万円〜1億円超の特注部品の塊。歩行技術の金字塔であっても「イベントのデモ展示」にとどまり、商業的回収ループが回らなかった。
ソフトバンク Pepper が直面した壁
- 物理作業の不在:店舗案内や会話に特化したが、工具を握り作業するマニピュレーション能力がなく「最初は物珍しいが1ヶ月で飽きられる」壁を越えられなかった。
「人間と同じ形をしていることの価値は、愛嬌を振りまくことではありません。人間が過去数百年にわたって作り上げてきた『物理インフラ』――ドアの取っ手、階段、ドライバー、作業台の高さ――を、一切改造せずにそのまま使えること。これこそがヒューマノイドの唯一の存在理由です」
もし工場をロボット専用に改装するなら、テスラのギガファクトリーのように専用の大型ロボットアームを並べれば済みます。しかし世の中の大半の中小工場には、そんな巨額改修を行う資金はありません。「人間が使っているドライバーをそのまま握り、人間が立っている作業スペースにそのまま入り込めること」――これこそが最大の経済合理性であるという第一性原理でした。
3. EV工場での手痛い洗礼と「量産第一主義」への転換
創業からわずか半年後の2023年8月、AGIBOTは身長175cm、体重55kgの初代モデル「遠征A1(Expedition A1)」を発表しました。ステージ上を颯爽と歩き、ネジを締め、液体を注ぐデモに、会場は熱狂に包まれました。
しかし、その直後に中国の大手EVメーカーの工場で行われたパイロット導入試験で、チームは現実の厳しさを思い知らされることになります。
研究所のクリーンルームでは完璧に動作していた指先が、油膜と金属粉が舞う実際の車体組み立て現場では、わずか数ミリのズレでボルトを噛み込ませてしまいました。また、空調が効いたラボとは異なり、真夏の猛暑の工場内ではモーターがオーバーヒートを起こし、連続稼働が数時間でストップしたのです。
工場の製造責任者から投げかけられた言葉は容赦のないものでした。
「動画で見せる手品なら素晴らしい。だが、うちのライン工は1個0.05秒の精度で1日8000回ネジを締めている。君たちのマシンは、その10分の1のペースで止まってしまう」

この失敗を受けて、稚暉君は即座に組織の舵を切り直しました。見栄えの良い外装パーツの設計を止め、現場の泥臭い耐久試験にエンジニア全員を投入したのです。
| 比較軸 | 従来のヒューマノイド開発思想 | 稚暉君・AGIBOTの実戦思想 |
|---|---|---|
| 開発のゴール | 人間にどれだけ近づけるか(柔軟性・生体模倣) | 工場のボルトを何万回連続で締められるか(歩留まり) |
| 関節アクチュエータ | 高価な輸入減速機・超精密トルクセンサ | 自社開発「PowerFlow」モーターによる極限の内製低コスト化 |
| 販売モデル | 1台数百万円〜数千万円の本体売り切り | 作業時間単位で課金する「RaaS(サービスとしてのロボット)」 |
| ソフトウェア設計 | 単一マシンの制御アルゴリズム特化 | ROS2の限界を超えるマルチノード分散基盤「AimRT」のオープン化 |
| 失敗への許容度 | 転倒やエラーを絶対悪とする完璧主義 | 現場でデータを収集し、翌日のOTAアップデートで直すアジャイル型 |
特に決定的だったのは、関節モーターの内製化でした。他社から既製のアクチュエータを買い集めて組み立てていては、1台数百万円のコストになり、工場の投資回収期間(ROI)に見合いません。自社設計の「PowerFlow」関節モーターを量産することで、宇樹科技(Unitree)のG1が仕掛けた価格破壊と同様、単機コストを劇的に引き下げる基盤を作りました。
さらに、拓竹(Bambu Lab)が3Dプリンタ市場で実証したハードウェアの垂直統合アプローチに学び、サプライチェーンの要所を自社で握る体制を敷いたのです。
4. 「機械は人間の仕事を奪わない」という信念の根底にあるもの
ヒューマノイドロボットが工場のラインに立つ光景に対して、欧米や日本のメディアでは常に「雇用の喪失」という懸念がつきまといます。しかし、中国の産業現場に身を置く稚暉君の視座は、それとは全く逆の方向を向いています。
現在の中国の沿海部では、若者の工場離れが深刻なペースで進んでいます。エアコンの効いたオフィスでフードデリバリーの注文をさばく仕事やライブコマースの配信者になる若者が急増し、夏は40度近くまで室温が上がるプレス工場や、有機溶剤の臭いが漂う塗装現場では、求人を出しても人が集まりません。
「夜勤のシフトに誰も入りたがらない。募集をかけても2週間で辞めてしまう。工場長たちが頭を抱えているのは『人件費を削りたい』からではなく、『そもそも作業をやってくれる人間が物理的に存在しない』からなんです」
稚暉君はある対談で、自身のロボット観について静かに語っています。
機械が人間の仕事を奪うのではありません。人間がやらなくてもいいはずの苦痛を、機械が肩代わりするのです」。
5. ギークの夢から産業のインフラへ
2026年現在、AGIBOTは自動車工場やエレクトロニクス受託製造(EMS)の現場に向けて、累計数千台規模のロボットを出荷し、BYDなどの大手EVサプライチェーンの実証ラインで昼夜を分かたず稼働を続けています。
深センの片隅で、はんだごてを握りしめて奇妙なガジェットを作っていた一人の青年は、いまや数百億円の資金を動かし、世界の製造業のあり方を書き換えようとする産業のリーダーになりました。
稚暉君の歩みは、日本のものづくり産業にとっても示唆に富んでいます。優れた要素技術やロボット工学の歴史を持ちながら、ソフトウェアとの融合や「泥臭い商業化」への踏み込みで足踏みをしてきた日本企業に対し、彼の軌跡は問いかけています。
「本当に世界を変えるのは、完璧に美しく作られた技術展示物ではない。現場の油と埃にまみれながら、愚直に経済性と信頼性を追求したマシンだけが、明日を変えるのだ」と。
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