1. 「画面を増やすな、車を動かせ」:2021年深夜、上汽安亭で下された決断
2021年晩秋の深夜、上海市嘉定区安亭にある上汽集団(SAIC Motor)技術センター。ガラス張りの戦略検討室には、張り詰めた沈黙が流れていました。
プロジェクターに投影されていたのは、新興EV各社が競い合うように投入していた新型車のデザインモックアップです。ダッシュボードを覆い尽くす3連スクリーン、後部座席の折りたたみ式液晶モニター、車載冷蔵庫、そしてゼロヒャク(0-100km/h加速)3秒台を誇る過剰なモーター出力。「冷蔵庫・大型テレビ・高級ソファ(冰箱彩電大沙発)」と呼ばれるキャビン内のエンターテインメント競争が中国EV市場を席巻し、消費者の目を奪っていた時期のことです。
智己汽車のプロダクト企画チームが提出した第1世代の提案書もまた、そうした市場の流行に寄り添ったものでした。
「他社に対抗するため、インパネ全面のディスプレイと後席エンタメをさらに大型化し、座席マッサージ機能と高級レザーをフル装備すべきです」
しかし、上汽で20年以上にわたり車両開発の最前線を率いてきた生粋のエンジニアであり、智己汽車の共同CEOを務める劉濤(リウ・タオ)は、その企画書を静かに机の端へ押し戻しました。
「車輪がついている動く空間を、ただの『リビングルームの延長』に矮小化してはならない。画面の枚数を増やし、モーターの馬力を競うだけなら、誰でも金を積めばできる。私たちが解決すべきは、100年の自動車工学が解けなかった『走る・曲がる・止まるの物理的限界』をソフトウェアの第一性原理で再定義することだ」
劉濤の言葉に、開発チームの一部は戸惑いを隠せませんでした。当時、バッテリーとモーターのコモディティ化が進み、テスラや中国の新興EV勢が差別化の拠り所としていたのは、自動運転アルゴリズムと車載OSのUIデザインでした。足回り(シャシー)の開発は「開発期間が長く、コストがかさみ、地味でユーザーに伝わりにくい領域」と敬遠されがちだったからです。
しかし劉濤の視線は、全く異なる産業の地平を見据えていました。
自動車が将来、AIエージェントやマルチモーダル世界モデルによって駆動される「車輪を持ったフィジカルAI(Embodied AI)ロボット」へと進化するならば、中央計算ユニットが「大脳」であるのに対し、足回りは路面と対話しミリ秒単位で身体バランスを維持する「小脳」でなければならない。大脳がいかに賢くなっても、小脳が旧態依然の機械油圧バルブと分断されたECUのままでは、車は真の知能化を果たせない——。この逆直感的なエンジニアリングの確信が、後に「霊蜥(Lingxi)デジタルシャシー」と呼ばれる革新技術の出発点となりました。
当時の主流EVが陥っていた表層競争
- キャビンの家電化:大型ディスプレイ、車載冷蔵庫、高級シートなどの室内装備競争
- 直線の馬力主義:日常域では使い切れない過剰な加速性能(0-100km/h加速秒数)の宣伝
- 足回りのブラックボックス依存:海外Tier 1製ECUを個別に買い揃え、統合制御を放棄
劉濤が選択した「フィジカルAIシャシー」の第一性原理
- 走りの物理限界突破:全長5m級ボディの回転半径を最小化し、都市部での取り回しを革新
- 三軸六自由度の統合制御:駆動、制動、操舵、サスペンションを単一の中央アルゴリズムで統制
- ソフトウェア定義の運動性能:コード更新(OTA)によって走行フィールと安全限界が進化し続ける基盤
2. 欧州メガサプライヤーの「ブラックボックス」を打ち破る覚悟
劉濤が掲げた構想の前に立ちはだかったのは、自動車産業が過去数十年にわたって築き上げてきた強固なサプライチェーンの分業体制でした。
伝統的な内燃機関車はもちろん、初期の電気自動車においても、シャシーの重要部品はボッシュ(Bosch)、コンチネンタル(Continental)、ZFといった欧州のメガサプライヤー(Tier 1)が絶対的な支配権を握ってきました。アンチロックブレーキ(ABS)や横滑り防止装置(ESC)、電動パワーステアリング(EPS)、電子制御エアサスペンション、連続可変ダンピング(CDC)などの基幹コンポーネントは、それぞれが専用のマイクロコントローラ(ECU)を内蔵し、動作ロジックは強固な「ブラックボックス」として封印されていたのです。
完成車メーカー(OEM)が足回りの挙動を少し調整しようとするだけで、サプライヤーに巨額の適合標定費用を支払い、エンジニアが来訪するまで数カ月待たなければなりませんでした。
さらに致命的だったのは、各部品が独立した「情報のサイロ」と化していた点です。急ブレーキをかけた際、フロントが沈み込むノーズダイブ現象を抑えるには、ブレーキシステム、ダンパー減衰力、エアサスペンションの車高調整、前後のモータートーションが同時に協調して動く必要があります。しかし、異なるサプライヤーのブラックボックスECU同士がCANバス経由で低速に対話している従来の構造では、ミリ秒単位の完全同期制御など不可能でした。
「ブレーキはブレーキ、ステアリングはステアリングで別々の頭脳が勝手に動いている。まるで手と足の神経が途切れたまま走るアスリートのようなものです。ハードウェアの金属部品はトップサプライヤーから調達し続ける。しかし、それらすべての筋肉を1万分の1秒で統率する『小脳のコード』は、自分たちで1行ずつ書かなければならない」
劉濤は、上汽技術センターが2018年から水面下で温めていた前瞻線控技術チームを全面動員しました。ブレーキ、ステアリング、エアサス、モーター駆動という車体の三軸(X・Y・Z方向)にまたがる「六自由度(前後、左右、上下、ピッチ、ロール、ヨー)」の運動方程式をゼロベースで解体。上汽自研の中央運動制御ソフトウェア「VMC(Vehicle Motion Control)」へと統合する開発プロジェクトに打って出たのです。
サプライヤーとの交渉は難航を極めました。下位のアクチュエータ制御インターフェースを開示することは、Tier 1にとって長年誇ってきた技術の聖域を手放すことを意味したからです。しかし、年間数百万台の生産規模を持つ上汽集団のバイイングパワーと、「コードは内製するがハードウェア調達量は保証する」という現実的な妥協策を武器に、智己はついに基幹アクチュエータの低遅延アクセス権を奪取しました。
累計100万kmを超える極寒・酷暑・高原のテストコースを走り込み、1万回以上の限界挙動データを収集。欧州メガサプライヤーのブラックボックスを破り、ソフトウェアが物理ハードウェアを直接手足のように動かすアーキテクチャが完成しました。
3. 「霊蜥」がもたらした反直感の物理体験:5mの巨体がPoloより小さく曲がる
ソフトウェアが足回りを統制したとき、ユーザーの目の前に現れたのは、これまでの自動車力学の常識を覆す反直感的な走行体験でした。
中国の多くの都市では、数百年続く狭い路地(上海の弄堂や北京の胡同)と、急増した超高層ビルの地下にある狭小な立体駐車場が混在しています。現代のプレミアムEVはバッテリー搭載容量を稼ぐために全長5メートル前後、全幅約2メートル、ホイールベース3メートル近い巨大なサイズになりがちで、「大車難開(大型車は運転しづらく取り回しが悪い)」という切実なユーザーの不満が存在していました。
智己L6に搭載された「霊蜥デジタルシャシー」は、後輪アクティブステアリング(最大±6度以上の双方向操舵)、インテリジェント電子制御エアサスペンション、ミリ秒応答の電控減衰力ダンパー(CDC)、そしてデュアルモーターのトルクベクタリングを単一のアルゴリズムでミリ秒単位で連動させます。

その真価を象徴するのが、以下の3つの具体的なブレークスルーです。
① 「カニ歩き(蟹行モード)」による縦列駐車の解放
前輪と後輪を同一位相へ操舵することで、車体を平行に保ったまま斜め前方・後方へスライド移動(対角方向の横移動)させることが可能になりました。前後に車がびっしりと詰まった狭い縦列駐車スペースでも、従来の「何度も切り返して脱出する」苦行から解放され、わずか1回の前進でスムーズに道路へ抜け出すことができます。
② 最小回転半径4.99m:コンパクトカー並みの小回り
全長4,931mmの大型プレミアムセダンでありながら、後輪を前輪と逆位相に切ることで、最小回転半径はわずか 4.99メートル にまで縮小しました。これはフォルクスワーゲンのコンパクトハッチバック「Polo(ポロ)」や軽自動車に迫る数値です。2車線の狭い道路であっても、切り返しを一度も挟むことなく「一発Uターン」が決まります。
③ 20ミリ秒の「スーパー小脳」:パンクと水たまりの瞬間制御
高速道路を時速120kmで巡航中に突然タイヤがバースト(爆胎)したり、片側輪だけが深い水たまりに突入して激しいハイドロプレーニング現象が発生した場合、人間のドライバーが危機を察知してステアリングを切り直すには約200ミリ秒を要します。
霊蜥デジタルシャシーは、タイヤの回転速度と車体Gセンサーの微細な変化から、異常の発生を 20ミリ秒(人間の10分の1の時間、従来のESP比でも30%以上高速) で検知。瞬時に後輪の切れ角を逆位相へ振り、同時に左右モーターのトルク配分を非対称に補正することで、車体のヨーレート(回転挙動)を強制的にゼロへ引き戻します。パイロンを無人自律走行で時速71kmで回避する「無人エルクテスト」の成功は、この反射速度の賜物でした。
さらに、街乗りでEV特有の加速Gと回生ブレーキによって乗員が車酔いする問題に対しても、ブレーキ踏み込み時にダンパーとサスペンションを同期させて車体姿勢を水平に保つ「雲台車身制御(ジンバル姿勢制御)」を実装。同乗者がスマートフォンを見つめていても酔いにくい走行フィールを実現しました。
4. トヨタ・日系サプライヤーが直面する「職人芸のメカ」から「コード定義の身体」への地殻変動
智己汽車が推し進めるデジタルシャシーの進化は、日本の自動車産業に対しても極めて重大な示唆を投げかけています。
トヨタ自動車(レクサス)、本田技研工業、日産自動車、そしてデンソー、アイシン、KYB、日立Astemoといった日系のサプライヤー陣は、過去半世紀にわたり、世界最高峰のシャシーチューニング技術を誇ってきました。「匠(たくみ)の技」と呼ばれる熟練のテストドライバーによる官能評価と、ダンパーのオリフィス径やゴムブッシュの硬度をミクロン単位で煮詰める精密な機械工学。マツダの「人馬一体」やレクサスの滑らかな静粛走行フィールは、長年のメカニカルな積み上げが生んだ結晶でした。
しかし、智己が提示した世界は、競争の土俵そのものが変わったことを示しています。
物理パーツの微調整による「固定された乗り味」から、路面状態とドライバーの意図をリアルタイムに推論し、ミリ秒単位で挙動を再生成する「動的なソフトウェア制御」へのシフトです。かつて一眼レフカメラの光学レンズ性能が至高とされた時代から、スマートフォンのコンピュテーショナルフォトグラフィー(計算写真学)が日常の画質基準を塗り替えた構図と完全に重なります。
| 比較評価軸 | 伝統的な日欧高級車のシャシー | 智己汽車「霊蜥デジタルシャシー」 |
|---|---|---|
| 制御の中心アーキテクチャ | 部品ごとの独立ECU(CANバス経由の分散通信) | 中央統合VMCソフトウェア(集中型ドメイン制御) |
| サプライヤーとの関係 | Tier 1提供のブラックボックスアルゴリズムを購入 | 硬件は外部調達、運動制御コードは完全自社開発 |
| 旋回性能(全長5m級) | 回転半径 5.6m〜5.9m(切り返しが必須) | 回転半径 4.99m(カニ歩き・最小小回り) |
| 異常挙動の補正応答時間 | 100〜150ミリ秒(従来の機械油圧ESP) | 20ミリ秒(線控モーター+後輪操舵の連動) |
| 納車後の機能進化 | 出荷時のメカニカルなハードウェア仕様で固定 | OTAアップデートにより旋回角や乗り心地が継続改善 |
日本のサプライヤーが得意とするハードウェアの精度や耐久性は、依然として高い競争力を持っています。しかし、もし制御アルゴリズムの主導権がOEMの中央OSへと吸い上げられ、アクチュエータが単なる「コードに従って動く筋繊維」に過ぎなくなれば、サプライヤーの利益の源泉である高付加価値ECUのビジネスモデルは崩壊しかねません。
さらに、智己を支える上汽集団とアリババ、そして自動運転ユニコーンMomenta(モメンタ)との連携体制は、ハードウェアの規模とソフトウェアの知能が融合した新しいエコシステムの姿を提示しています。
5. 劉濤が描く最終到達点:自動車は「車輪を持つフィジカルAIロボット」へ
中国の自動車市場ではいま、シャシーを巡る巨大な技術競争が勃発しています。ファーウェイ(華為)の「途霊(Turing)シャシー」、比亜迪(BYD)の「雲輦(DiSus)」、蔚来(NIO)の「SkyRide天行シャシー」など、トップランナーたちがこぞって足回りの全域デジタル統合を急いでいます。
その中で、劉濤率いる智己汽車が際立っているのは、この技術を一部の高価格帯限定フラッグシップではなく、20万元台(約400万円台)の量産普及モデルであるL6や新型LS6にまで「全車標準装備」として一気に民主化させた点にあります。先端技術をマス層に叩き込み、市場の標準装備の基準そのものを引き上げてしまう中国市場のスピード感です。
自律走行を巡る近年の議論では、世界モデルやエンドツーエンド基盤モデルといった「認知・判断(大脳)」の進化ばかりが脚光を浴びてきました。しかし、認知された世界に対して車体が物理的にどう振る舞うかという「身体制御(小脳)」の自由度が制限されていては、AIが描いた理想的な回避軌跡を現実のタイヤとアスファルトの接地面で再現することはできません。
劉濤が最初から見抜いていたのは、この「身体性(Embodiment)」の重要性でした。
「人間が歩くとき、大脳はいちいち右足の筋肉の収縮度合いを計算していません。小脳が無意識にバランスを取り、地面の凹凸に適応しているからこそ、人間は自由に考えながら走ることができる。車も同じです。大脳である自動運転AIが安心してハイレベルな判断を下すためには、小脳であるデジタルシャシーが完璧に身体を制御していなければならない」
大画面の数やシートの豪華さを競う「動くリビングルーム」の熱狂を冷徹に拒絶し、走りの物理法則を自社のコードで掌握する道を選んだ劉濤のエンジニアリング哲学。
それは、100年の歴史を持つ自動車産業が「内燃機関の機械製品」から「知能化された身体を持つロボット」へと脱皮する過程において、避けては通れない本質的な通過儀礼でした。欧州メガサプライヤーの厚い壁を突き崩し、コードで身体を解き放った智己の挑戦は、ハードウェアの熟練に安住する世界の自動車メーカーに対し、ソフトウェア定義時代の「走りの真価」とは何かを突きつけています。
情報ソース・参考資料
- 智己汽車(IM Motors)公式技術リリース:「霊蜥デジタルシャシー」技術白書および三軸六自由度協調制御仕様(2024年4月〜2026年9月)
- CnEVPost:“IM Motors unveils new electric sedan IM L6, pre-sales begin at starting price of $31,810”(2024年4月8日)
- 上汽集団(SAIC Motor)公式プレスリリース:技術センター前瞻線控操舵プロジェクト及び「一号工程」戦略進捗(2024年〜2026年)
- 財聯社(CLS.cn)および中国自動車工業協会(CAAM):「スマートシャシー産業チェーン動向とVMC技術アーキテクチャの展望」
- 智己汽車 共同CEO 劉濤 公開基調講演及びメディアグループインタビュー実録(上海国際モーターショー / 智己L6・LS6発表会)
なお、同領域における産業構造の転換については、本誌が先に検証した「ギークの玩具を家電に」拓竹BambuLab、700台破壊の現実および無料チャットに背を向けた25年:科大訊飛、AI端末の現実の分析もあわせて参照されたい。
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