1. 「我々の動きは遅かった」――年次社員総会の壇上で馬化騰が語った痛烈な告白
2026年1月26日、深圳のテンセント(騰訊)グローバル本社大ホール。恒例の年次社員総会の壇上に立った董事会主席兼CEOの馬化騰(ポニー・マー)氏は、詰めかけた数千人の社員とオンラインで見守る数万人のグループ社員を前に、言い訳のない言葉で口火を切りました。
「率直に言って、我々のAIにおける一連の動きは遅かった(我们整个动作其实是慢了)。2024年の暮れになってようやく、元宝(Yuanbao)と大規模言語モデル『混元(Hunyuan)』がCSIG(クラウド・スマート産業事業群)へと正式に移管され、製品としての本格的な開発サイクルが回り始めたのだ」
中国のテクノロジー業界において、馬化騰ほど冷静沈着で言葉を選び抜く創業者は稀です。その彼が、社内外に対して自らの「遅れ」を公然と認めた瞬間でした。
当時、中国のAI市場は狂乱の様相を呈していました。ByteDance(字節跳動)は対話AI「豆包(Doubao)」に月間数億元規模の広告予算を投じてアプリストアのランキング首位を独占し、百度(Baidu)は「文心一言(ERNIE Bot)」の全面刷新をアピールして連日大々的なPR攻勢を仕掛けていました。スタートアップの月之暗面(Moonshot AI)の「Kimi」やMiniMaxも、若年層の認知獲得に莫大な資金を投じていました。
その間、時価総額でアジア最大級を誇るテンセントは何をしていたのか。自社開発の大規模言語モデル(LLM)「混元」を冠した消費者向け単体アプリ「元宝」を一般公開したのは、ライバルたちに遅れること1年以上の2024年半ば。競合が派手なプロモーションに狂奔する中、テンセントの静けさは市場から「AI時代に乗り遅れた巨人」という冷ややかな視線を浴びる要因となっていました。
競合各社が走った「トラフィック獲得戦」
広告依存と短期インストール:巨額のマーケティング費用でApp Storeの首位を奪取。だが単体チャットボットとしてのリテンション(継続率)は低く、補助金が切れるとユーザーが離脱する焼き畑構造。
馬化騰が貫いた「エコシステム共生戦」
第一性原理とシナリオ統合:未完成のモデルで13億人の信頼を損なうリスクを断固回避。WeChat(微信)の検索、公式アカウント、ミニプログラムという独自資産に深く根を張るまで待つ持久戦。
なぜ馬化騰は、外部の焦燥感をよそに「遅さ」を選んだのか。そこには、13億人の日常インフラを預かるリーダーならではの冷徹な計算と、テクノロジーの本質を見極める第一性原理がありました。
2. 「花火を急いで打ち上げるな」――13億人の信頼を担保にする第一性原理
馬化騰のAIに対する姿勢を解き明かす鍵は、ChatGPT登場直後の2023年春、彼が社内の決算説明会や役員会で繰り返していたあるフレーズにあります。
AIは100年に一度の技術革命であり、蒸気機関や電力の発明に匹敵する機会だ。しかし、中途半端な半製品を世に出して、あわてて花火を打ち上げる必要などまったくない。肝心なのは、自社のコアビジネスと結びつく強固な基盤を作り上げることだ。
シリコンバレーや中関村の起業家たちが「モデルのパラメータ数」や「ベンチマークスコア」で優劣を競い合っていた時期、馬化騰が見つめていたのは全く異なる指標でした。それは「WeChat(微信)という国民的信用資産の毀損リスク」です。
WeChatの月間アクティブユーザー数(MAU)は13億人を超えています。中国においてWeChatは単なるメッセージングツールにとどまらず、家族との連絡、職場の業務連絡、公共料金の支払い、身分証の提示、医療予約に至るまで、社会生活のあらゆる局面を支える社会インフラそのものです。
もしテンセントが競合に対抗するためだけに、ハルシネーション(幻覚)を頻発し、不正確な情報を自信満々に答える未熟なAIチャットボットをWeChatのトップ画面に暴力的に押し込んでいたらどうなっていたでしょうか。
1日数十億件のメッセージが飛び交うタイムラインに、AIによる不快な自動生成スパムや偽情報が紛れ込めば、テンセントが過去15年かけて築き上げた「安全で清潔なプライベート空間」という無形の信用は一夜にして瓦解します。
| 比較軸 | ByteDance(豆包)の戦法 | 百度(文心一言)の戦法 | テンセント(混元・元宝)の戦法 |
|---|---|---|---|
| 中核となる思想 | トラフィックの量産とアルゴリズム最適化 | 検索エンジンの全面AIリプレイス | コミュニケーション基盤とコンテンツ信用の保護 |
| 初期のユーザー獲得 | 抖音(TikTok)と外部アドネットワークへの巨額広告出稿 | 自社検索結果の上位誘導とPR発表会 | WeChatエコシステム内での自然発生的検証 |
| 許容されるリスク | 離脱されても新規流入でカバー可能 | 検索精度の低下リスクを冒してでも先行 | 13億人のユーザー体験毀損は絶対に許容不能 |
| 勝負の決着点 | アプリ単体のダウンロード数・DAU | クラウドAPI売上とエンタープライズ契約 | WeChat経済圏全体の粘着性とエージェント化 |
ByteDanceにとって、AIアプリは「短尺動画の次に来る新しいトラフィックの器」であり、低コストでユーザーを獲得して回遊させれば成功でした。しかし、テンセントにとってWeChatは「失敗が許されない国家級のデジタル神経網」です。
馬化騰にとっての第一性原理とは、「AIの派手さ」ではなく「エコシステムの健全性」を守り抜くことでした。他社が花火を打ち上げて歓声を浴びている間、彼はあえて社内批判の矢面に立ちながら、モデルの安全性とインフラの整備に時間を費やしたのです。
3. 「AI全部盛り」の拒絶とCo-design――組織の壁を破壊した「元宝」の覚醒
しかし、馬化騰の慎重さは、単なる無策や逃げではありませんでした。2024年後半、彼が下した最大の外科手術こそが、AI開発チームの「組織構造改革」でした。
それまでテンセントのAI開発は、技術エンジニアリング事業グループ(TEG)が主導していました。TEGは優秀な研究者を多数抱え、学術的な論文や基底アルゴリズムの探求には強みを持っていましたが、一般消費者向けのプロダクト感覚や過酷な市場競争への嗅覚に欠けていました。
馬化騰は社内の病理を的確に見抜いていました。
「混元の開発が現場のニーズと乖離していた根本原因は、インフラ(AI Infra)と実務プロダクトの分断にあった。モデルを作る人間が顧客の痛烈なフィードバックを直接浴びていなければ、イテレーションの速度で他社に勝てるはずがない」
馬化騰が下した決断は、TEGの研究開発部隊と製品部隊を解体・再編し、「元宝」と「混元」の全権を湯道生(Dowson Tong)氏率いるCSIGへと移管することでした。同時に、AIインフラ部、AIデータ部、データ計算プラットフォーム部を新設し、元OpenAIのコア研究者である姚順雨(Yao Shunyu)氏をはじめとする世界トップクラスの頭脳を招聘しました。

ここで馬化騰が組織に課したのが、「Co-design(モデルとプロダクトの協調設計)」というアプローチです。
モデル開発者は机上のベンチマークを追うことを禁じられ、元宝のUI/UXデザイナーや営業チームと机を並べて「ユーザーがどの瞬間にハルシネーションに失望したか」「どの対話で思考プロセスを打ち切ったか」をデイリーで突き合わされました。
さらに、馬化騰は競合他社がこぞって導入していた「AI全部盛り(中国語でいう『AI全家桶』)」のアプローチを明確に退けました。
これは、オフィスソフト、ブラウザ、決済アプリ、地図アプリなど、自社のあらゆるソフトウェアのツールバーに無理やりAIチャットのアイコンをねじ込む手法です。馬化騰はこのやり方を「プロダクト側の自己満足であり、ユーザーの邪魔にしかならない」と切り捨てました。
「AIは中心に君臨する神ではなく、背後で静かに摩擦を取り除く潤滑油でなければならない」
この信念のもと、テンセントはWeChat本体をAIアイコンで埋め尽くす愚行を避け、代わりに「搜一搜(WeChat検索)」の検索窓の奥深くや、公式アカウント(公众号)の長文読解アシスタント、さらにはグループチャット内で人間の会話を円滑にするAIと人間が共生する「元宝派」のような、極めて自然で目立たない文脈へとAIを忍び込ませていったのです。
4. 「微信の壁」を逆手に取った独占資産――元宝が手にした決定的な非対称優位
組織の再編と哲学の純化を経て、元宝が手にしたのは、百度やByteDanceが逆立ちしても手に入れられない「決定的な非対称の堀(Economic Moat)」でした。
それは、「WeChat公式アカウント(微信公众号)に蓄積された数億本に及ぶクローズドな高品質テキスト資産」です。
中国のインターネット空間は、オープンウェブの崩壊が進んだ世界です。質の高い専門家のオピニオン、企業分析、学術的解説、ライフスタイルの知見の多くは、百度などの一般的な検索エンジンではインデックスできない「WeChatの壁(ウォールド・ガーデン)」の内側に閉じ込められています。
百度の文心一言やByteDanceの豆包がどれほど巨額の計算資源を投じようとも、彼らのクローラーはWeChatの奥深くにある良質な記事データにアクセスすることができません。その結果、オープンウェブの質の低いSEOコピペ記事や広告記事を学習・検索元(RAG)にせざるを得ず、回答の質が頭打ちになるというジレンマを抱えていました。
WeChat × 混元 AIエコシステム
13億人の信頼と独占知見資産
公式アカウント(公众号)
他社クローラーを遮断した数億件の長文・専門記事を独占RAGソースとして活用
搜一搜(WeChat Search)
日常の疑問から製品購入まで、AIが公式ソースを引用しながらダイレクト回答
元宝派 & グループチャット
孤立した対話ツールではなく、友人やコミュニティの会話を活性化するAIエージェント
混元 Hy4 & Video
[HunyuanVideo](/blog/2026/08/tencent-hunyuan-video-open-source-revolution/)や[Hy4](/blog/2026/08/tencent-hunyuan-hy4-preview-agent-coding-benchmark/)を軸に、企業向けクラウドと開発者コミュニティを囲い込み
一方、テンセントの元宝は、WeChat公式アカウントの膨大なライブラリへのネイティブアクセスを許諾されています。
ユーザーが「中国のEV充電インフラの最新規制について教えてほしい」と問いかけると、元宝はオープンウェブの粗悪なまとめサイトではなく、自動車メディアや業界アナリストがWeChat上で執筆したばかりの権威ある一次情報を瞬時に参照し、元記事へのリンクを添えて精緻な要約を返します。
この「情報の信頼性と深さ」において、元宝は先行する他社チャットボットとの差別化に成功しました。マーケティングの札束で集めた見せかけのダウンロード数ではなく、ビジネスパーソンや研究者が「実際に仕事で使える道具」として選ぶアプリへと定着していったのです。

馬化騰が待っていたのは、まさにこの瞬間でした。他社が巨額の広告費を使い果たし、補助金の枯渇とともにユーザーが離脱し始めた頃、テンセントは満を持して2026年の旧正月に10億元規模のデジタルお年玉キャンペーンを敢行。強固なプロダクト品質とWeChatのソーシャルグラフを掛け合わせることで、一過性ではない盤石なアクティブユーザー基盤を瞬く間に構築して見せたのです。
5. 自前主義を捨てた「DeepSeek統合」と創作者の反発――巨人が呑み込んだ矛盾
もっとも、テンセントの逆襲は、自社モデル「混元」の純粋な技術力だけで成し遂げられたわけではありません。その裏には、大企業のメンツをかなぐり捨てた冷徹な妥協と、今もプラットフォーム内部で燻り続ける摩擦がありました。
最大の転換点は、自前主義(NIH症候群)を捨てて外部の競合モデル「DeepSeek-R1」を元宝とWeChat検索の心臓部に組み込んだ決断です。従来、巨大テック企業にとって外部のスタートアップが開発したモデルを自社の中核アプリに採用することは、自社の研究開発部門(混元チーム)の敗北を認めるに等しいタブーでした。しかし馬化騰とCSIG経営陣は、「ユーザーが求めているのはテンセントの面子ではなく、最も賢い回答だ」と割り切り、混元とDeepSeekを自由に切り替えられる「デュアルエンジン戦略」へ即座に舵を切りました。さらに、かつて自ら批判していたはずの「巨額のユーザー獲得広告」も解禁し、農村部の壁面広告から春節の10億元お年玉キャンペーンまで、徹底的な資本戦を展開したのです。
同時に、WeChatエコシステムの内部でも2つの深刻なジレンマが浮上しています。
| 内部摩擦の焦点 | 表面化した構造的ジレンマ | テンセントの現実的対応 |
|---|---|---|
| WXG(微信事業群)との温度差 | 張小龍氏が率いるWeChat本体は極端なミニマリズムを守り、画面を汚す過度なAI誘導を拒絶 | WeChat本体のUIは聖域として保護し、重厚なエージェント機能は単体アプリ「元宝」へ分離 |
| 公式アカウント創作者の反発 | AIが記事を直接要約してしまうことで、元記事へのクリック率(PV)と広告収益が奪われる懸念 | 回答内に必ず大きく原典カードのリンクを表示し、引用回数に応じた創作者への収益還元を模索 |
| 自社モデル「混元」の立ち位置 | 外部のDeepSeek人気に頼りすぎれば、自前の基盤モデル開発の存在意義が問われるリスク | 高速応答やマルチモーダル・長文処理は「混元」、深い論理推論は「併用」と役割を分担 |
日本のLINEヤフーやNTTドコモといったメガプラットフォーマーにとっても、テンセントの軌跡は生々しい教訓を突きつけています。「国民的インフラの信頼を守る慎重さ」と、「いざ勝負どころが来た瞬間に自前主義のプライドさえ捨てて外部技術を呑み込む獰猛さ」――この二面性こそが、馬化騰という創業者の真の恐ろしさです。
マラソンの最初の100メートルで遅れを取ろうとも、13億人の生活動線と独占コンテンツという「重力」を握り続けている限り、巨人は何度でもゲームのルールを書き換えることができるのです。
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