かつて中国の杭州市は、「タクシーが非常につかまりにくい街」として知られていた。2013年末、北京から杭州に出張したあるビジネスパーソンは、杭州蕭山国際空港に到着後、スマートフォン内の配車アプリ「滴滴打車(ディディダーシャー)」を使ってスムーズにタクシーを呼ぶことができた。
乗車すると、運転手はチャットアプリ「WeChat(微信)」の連絡先に彼女を追加し、「次回杭州に来る時は、搭乗便の情報を事前にWeChatで送ってくれれば、到着時間に合わせて迎えに行くよ。そうすれば無駄な待ち時間も省ける」と提案した。降車時、彼女は「Alipay(アリペイ/支付宝)」で運賃を支払った。モバイルインターネットの普及により、かつて困難を極めたタクシー探しという日常の課題が、瞬く間に解決されたのである。
この運転手のタクシーは車内に無料の4G Wi-Fiネットワークを提供しており、彼のWeChatの連絡先にはすでに数百人単位の「顧客リスト」が登録されていた。彼は祝日になると顧客へ挨拶のメッセージを送り、WeChat上の運転手コミュニティを通じて互いに顧客を紹介し合っていた。
配車アプリを巻き込んだ巨額のキャッシュバック戦争
2013年末、テンセント(騰訊)は配車アプリ「滴滴打車」へ巨額の出資(シリーズC)を実行した。これに対抗するように、Alipayを運営するアリババグループも、競合する配車アプリ「快的打車(クアイディダーシャー)」への投資を行っていた。両社は莫大なキャンペーン資金を投入し、乗客と運転手の双方にキャッシュバックを提供するという壮絶なシェア争いを展開した。
当時、Alipayは独自のプロモーションを通じて北京で2万台以上のタクシーと決済契約を締結。上海、杭州、南京といった主要都市へもこの取り組みを急速に拡大させていった。
WeChat Payの猛追と加盟店の拡大
テンセントは2013年、WeChatのバージョン5.0のリリースとともに「WeChat Pay(微信支付)」機能をローンチし、10月から大々的なキャンペーンを開始した。
人気の火鍋チェーン「海底撈(ハイディーラオ)」への導入をはじめ、格安ホテルチェーン「7天(7デイズ)」、カフェチェーン「パシフィックコーヒー(太平洋珈琲)」などと相次いで提携。さらに、スマート自動販売機「友宝(Ubox)」や百貨店の「天虹商場」などでもQRコード決済の導入を進めた。
同年12月には、WeChat Payは中国全国400か所の映画館と提携し、座席指定からチケット購入、決済までをアプリ内で完結させる仕組みを構築。オンラインECにおいても、家電EC「易迅網」や書籍EC「当当網」、口コミ・レストラン予約の「大衆点評(ダージョンディアンピン)」、スマートフォンの「シャオミ(小米)」などでWeChat Payの導入が進んだ。
2013年11月時点で、WeChat Payに銀行口座を連携したユーザー数は2,000万人を突破し、毎日約20万人の新規ユーザーが追加されていた。WeChat自体の月間アクティブユーザー(MAU)は当時すでに2億7,200万人に達しており、その膨大なユーザーベースが決済の急速な普及を後押しした。
アリババの「モバイルファースト」戦略
アリババは2013年10月に「ALL IN 無線(モバイルファースト)」戦略を宣言し、同社の主力ECアプリである「タオバオ(淘宝)」のモバイル版に経営資源を集中させた。これにより、3億人以上のモバイルユーザーを抱えるタオバオから、レストランO2O(Online to Offline)サービス「淘点点(タオディエンディアン)」や「微淘」が誕生した。
「淘点点」は、ユーザーが事前にメニューを選んで予約注文と決済を済ませることで、店舗側の調理時間や会計コストを削減し、客の回転率と売上を高める仕組みを提供した。中国の飲食業界の売上高は当時すでに2兆元(当時のレートで約34兆円)を超えており、アリババは淘点点を飲食業界における「タオバオ+天猫」のような巨大プラットフォームに育てることを目指していた。
キャッシュレス社会の黎明期
機能面においては、Alipayが一歩リードしていた。電波の届かないオフライン環境でも決済可能な機能や、音声決済、さらには預金連携サービス「余額宝(ユエバオ)」からの自動引き落としなど、先進的なエコシステムを構築していたからである。WeChat Pay側もオフライン決済のUX改善を急ピッチで進めていた。
当時、中国の決済業界関係者は「両者の競争は単なる同質化ではなく、それぞれが異なる強みと領域を持っている。最終的に中国のモバイル決済市場は、複数の大手による健全な寡占競争状態に落ち着くだろう」と分析していた。このタクシー決済の主導権争いこそが、その後の中国における「超キャッシュレス社会」の原動力となったのである。
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